「盛岡で新幹線『やまびこ』から特急『はつかり』に乗り継いで、窓から『ジャンプ台』を見るたびに悲しくなった。今は本当に東京が近くなった」
かつて八戸市に勤務し、都市整備部長などを歴任した妻神敬悦氏は感慨を語る。駅や周辺整備、さらには市の開業対策全般を担った「ミスター新幹線」の一人だ。「ジャンプ台」とは、新幹線高架が盛岡駅の北方で途切れていた姿を指す。スキー・ジャンプ競技の踏切台に似た光景から、青森県の新幹線関係者が自嘲を込めてそう呼んでいた。
1987年の国鉄分割民営化を経て、東北新幹線・盛岡以北の建設が動き出した。一時は部分的に「ミニ新幹線」規格の導入が決まった。しかし、どんでん返しを経て、盛岡―新青森間の全線がフル規格で着工されることになり、代わりに、八戸駅までの部分開業が差し挟まれた。
八戸は期間限定ながら、想定になかったターミナルの地位を得た。開業の時期は、青森県を会場に開催される冬季アジア大会に合わせて、2002年12月と決まった。
「八戸十和田」の駅名案も
だが、開業年が迫っても市内は混沌としていた。切望していた駅ビルの建設は決まらず、駅前一帯の商店街もめぼしい整備構想がない。駅舎が市街地から離れ、工事の進捗状況も感じられない。市役所と経済界には心理的な距離感もあった。
事態がようやく、しかし一気に動き始めたのは2001年だった。八戸市と八戸商工会議所は7月、それまで別々に設けていた開業対策組織を統合した。
その直後、JR東日本が駅ビルの建設を公表した。安定したテナントとして公共施設の入居を求められ、市は運営水準で全国的に評価が高かった市立図書館の分館を入居させることにした。新たな駅づくりのための基金には、市民や企業から約4億円の寄付が集まった。
この時期、開業への対応が加速した背景には「駅名を『八戸十和田』にしてはどうかという県からの提案があった」。八戸市で貸しビル業を営む傍ら、「哲学カフェ」を運営する石橋司氏は振り返る。
命名案には、北東北有数の観光地・十和田湖への誘客を進める意図があったとされる。しかし、市や経済界は猛反発し、それが市民の関心を高めるとともに結束を固めた、という。
やがて駅名変更は立ち消えになり、「十和田」の名は結果的に、2010年12月に開業した東北新幹線・七戸十和田駅に冠せられた。
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