朝日と青空に見守られ、一番列車「はやて2号」は2002年12月1日午前6時55分、八戸駅を出発した。新たな時計が回り始めた。東京―八戸間は在来線当時から37分短縮され、最短2時間56分となった。盛岡―八戸間の利用者は1.5倍に増え、「開業は成功」という評価を獲得した。
観光面では、市民や周辺地域の台所だった「八食センター」が新たなスポットとなり、中心市街地にオープンした屋台村「みろく横丁」は市民と観光客の列が途切れなかった。
地元に伝わる「えんぶり」や「三社大祭」といった祭りもファンを獲得した。地域の人々が愛してやまない「八戸せんべい汁」の魅力は旅人にも受け入れられた。八戸港に面した館鼻岸壁で開かれる朝市は年を追うごとに成長、コロナ禍前には1日数万人が訪れるようになった。
開業はIT系や製造業など多様な企業の進出も加速した。企業誘致は開業前の10年間が11件、これに対し開業後の10年間は28件、さらにその後の10年間は42件に上る。開業時、懸念されていた“ストロー現象”はほとんど起きなかった……と石橋氏は証言する。
ただ、新幹線がもたらしたのは恩恵ばかりではない。日本の大動脈だった東北本線は盛岡―八戸間がJR東日本から切り離され、青森県部分は第三セクターの「青い森鉄道」、岩手県部分は同じく「IGRいわて銀河鉄道」に移行した。
運賃は値上げされ、特急列車は寝台特急を除いて姿を消し、やがて寝台特急そのものがなくなった。鉄道通学を忌避して、進学する高校を変更せざるを得なくなった生徒も多数存在した。駅の隣に誕生した飲食施設は数年で空き店舗になった。
新幹線開業が“スイッチ”に
新幹線で地元は何を手にしたのか。「八戸は観光を産業だと思っていなかった。しかし、観光都市に成長した」。八戸商工会議所の副会頭を務め、八戸圏域DMO「VISITはちのへ」理事長を兼務する塚原隆市(たかし)氏は市民の見立てを代弁する。
ただ、20年間の地元の変化を概観すると、その足跡を「観光開発に成功」と形容するのは皮相的に思われる。
人々が自らの地域資源を確かめ、その貴重さを再認識し、人とお金を呼び込んだ点で、八戸市は王道を歩んだと言える。
しかし見逃せないのは、新幹線開業をいわばスイッチとして、自らの価値と手法に自信を持ち、地域のマネジメント力とプロモーション力を向上させていったプロセスそのものだ。さらに、「模索し、変化し続ける」仕組みを獲得したことが最大の成果かもしれない。
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