50代になった孝さんが今なお遺恨を拭えないのが、たたかれた経験だ。どうしてあそこまで苛烈にたたかれなければならなかったのか――。
「今だったら虐待でしょうね」。たたいたことを、今、優子さんはそう感じている。ただ、優子さんにとって体罰は、やがて訪れる世界の終わりに備え、子どもを救うための愛情だった。
「私たちは孝を救いたい一心だった。けれど、孝はそれを私たちの愛情だとは受けとめられなかったのかもしれない。トイレに閉じこもって、出てこないこともありました・・・・・・」。
父親の剛さんも「つらかったろうなあ」と吐露する。「当時、私たち夫婦は夜も寝ずに仕事をしていた。本当はなぜたたくのかを孝に説明し、納得してもらったうえでなければたたく意味はないのに、じっくり話をする時間を持てなかった。悪かったなと思うところはある。謝るべきところは謝りたい」。
新たな精神的支柱となった聖書
後悔の色をにじませる剛さんだが、「反面、これでよかったんだという確信のようなものもある」と言う。「信仰を持たない現代の若い親たちは、生きることや幸福感について、確信をつかめているのだろうか」。
剛さんには忘れられない光景がある。1945年の敗戦から間もない時期のある朝、学校へ行くと、天皇・皇后の御真影や教育勅語謄本が納められた建物「奉安殿」が取り壊されていた。
「ついこのあいだまで絶対的なものだと教えられていた奉安殿が、目の前で崩れ去った。精神的な柱だったものが、あっさりと倒れた。世の中では民主主義だ、デモクラシーだと叫ばれるようになったけれど、私の身体には入ってこなかった。1975年にエホバの証人の信者になったのは、人間が生きていくうえで絶対に崩れることのない確かなもの、精神的な柱を探し求めていたからなのかもしれない」(剛さん)
新たな精神的支柱となった聖書。そこには「彼をむちで打つべきである」とはっきり記してある。
「聖書にはそう書いてある。だからたたいた。ただ、たたいたのは聖書に書いてあるからだけではない。終戦後の荒れた時代を必死に生きてきた私たちにとって、子どもをしつけるためにたたくのは、ごく普通のことだった」(剛さん)
剛さんは6年前から回顧録を書いている。自分がどういう時代に生まれ育ち、どういう思いでエホバの証人の信者になったのか。そして、なぜ息子をたたいたのか。文字にして残すことで、いつか息子や孫に理解してほしいと願うからだ。「私が死んでからでもいい。孝の不信感が、いつか感謝の念に変わってほしいと思う」。