先日、私はトルコを訪問した。長年トルコをこの眼で見てみたいと考えていた。かつてユーゴスラビアに住んでいた時代、イスタンブール発パリ行きの列車に何度も乗ったのだが、まだそのイスタンブールには行ったことがなかった。
トルコは、アジアとヨーロッパの結節点、東西冷戦におけるソ連封じ込めの砦、オスマントルコという巨大な国家によってロシア東欧地域を支配していたかつての大帝国の末裔、そして今も、トルコは西側と東側の真ん中に立ち、つねにその間を取り持っているのだ。
だから、トルコは西側にとっても東側にとっても、つねに重要な国であった。イスタンブールを貫くボスポラス海峡、そしてアルマラ海、ダーダネルス海峡、エーゲ海は、ロシアを含む東ヨーロッパと地中海を結ぶ唯一の航路であり、そこを支配するイスタンブール、すなわちビザンツ、コンスタンチノープルは、いつの時代もヨーロッパにとってもっとも重要な都市であった。
上海協力機構に出席したトルコ
2022年9月16日、中央アジアのウズベキスタンのサマルカンドで重要な会議が開催された。その会議は2001年に創設された上海協力機構(SCO)の会議で、参加した国はロシアと中国、インド、パキスタンなどの中央アジアの諸国、つまり西側陣営ではない国々の集まりであった。その中にトルコだけが西側、NATO(北大西洋条約機構)の一員として参加していた。
これはとても奇妙な光景でもあった。トルコは最近ロシアやイラン、中国に頻繁に接触している。当然西側と対立している国に接近すれば、アメリカやEUという西側諸国のバッシングが強まるのは当然だ。
トルコはNATO発足直後からの古い加盟国である。1951年に参加が認められ、1952年からNATOの一員になっている。そもそもトルコは、ソ連東欧に接する国としてきわめて重要な国であった。18世紀から衰退しはじめたオスマントルコはフランスなどの力を借り、西欧化に舵を切った。北方に位置するロシアの南下に対し、クリミア戦争を通じてイギリス、フランスに協力し、ロシアの南下を食い止めたが、露土戦争(1877~1878年)で痛い目に遭っている。
やがて第1次世界大戦でドイツ側につき敗戦し、その後オスマン帝国軍の将軍だったムスタファ・ケマル・アタルチュルク(1881~1938年)によって1923年10月29日、崩壊したオスマントルコに代わって現在のトルコ共和国が生まれる。
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