「コスパ」と「スマート」の行き着く先にある「疎外」 「他人から必要とされているのか否か」をやめる

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放っておくと「疎外」を味あわせてくる現代社会に対し、僕たちは「異議申し立て」をすることで人間としての尊厳をつねに回復していく必要があります。しかしこの「異議申し立て」は、一朝一夕にできるというわけではありません。「異議申し立て」は「個人的な体験」の積み重ねにある。そんなふうに思っています。

しかしすべてが商品化され、経済合理性で貫かれた都市生活を送っていると、なかなか「個人的な体験」をする機会にも恵まれません。なぜなら経済合理性を突き詰めると、他者ニーズがあることを競争の中でいち早く実行していかねばならず、周囲と人間的な関係が築けなくなっていくためです。

『わたしは、ダニエル・ブレイク』でもダニエルと隣人の青年がゴミ出しで時には喧嘩をしたり、パソコンの使い方を教えてもらったり、シングルマザーの親子と心温まる交流をする様子が描かれます。隣人や家族ぐるみの付き合いにこそ、商品ではない「個人的な体験」が含まれています。そのような機会を誘発するのが、「不合理」や「不便」です。

民俗学者の宮本常一は山での生活を以下のように書いています。

徒歩か牛馬の背によらない限りは往来のできない世界、しかも山坂の上り下りに疲れはてることに人間のエネルギーの大半を消費しなければならない生活、それはなんとも不合理の限りといわなければならないが、その不合理をいくぶんでも緩和するために、山中の人びとは生産したものを自分で市場まで持って出るのでなく、荷持ち専門の者に託する風が早くから生じていた。飛騨のボッカはそのよい例で、山中で生産されたものを平野地方へ、平野で生産せられたものを山中へと運んだのである。(宮本常一『山に生きる人びと』2011年(原書は1964年)、182頁、強調は筆者)

他者ニーズから抜け出す「個人的な体験」

この記述のポイントは、山村での暮らしの基本が商品を基礎づける経済合理性ではなく、「不合理」にあることです。そしてその「不合理」があるからこそ、できないことを他者に頼むことになります。

そもそもが不合理の塊である山村ではなく、合理的に設計された都市での暮らしでは真っ先にコストを考え、生産性を気にするような経済合理性に基づくスマートな行動は、「不合理」と出会うことは難しい。

『彼岸の図書館: ぼくたちの「移住」のかたち』(夕書房)。(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)

でもそうすると、僕たちは商品としての檻から出ることはできません。経済合理性をいったん捨て、一見不合理な状況に身を置くこと。まずはそれが、他者ニーズから抜け出す「個人的な体験」を生み出すことになります。

ルチャ・リブロは「彼岸の図書館」を名乗り、此岸である現代社会と距離を置き、「疎外」から抜け出したい、自分のペースを取り戻したいという、僕たちの「異議申し立て」です。ルチャ・リブロは、ダニエルが役所の壁いっぱいに書いた「私はダニエル・ブレイクだ」という文言と同じです。他者から見ると「落書き」かもしれないけれど、僕たちにとっては人生をかけた「個人的な体験」によって支えられています。そしてそんな「落書き」みたいなものにこそ、スマート化していく社会に抗する術が隠されているのだと思っています。

青木 真兵 「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」キュレーター、古代地中海史研究者、社会福祉士

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あおき しんぺい / Simpei Aoki

1983年生まれ、埼玉県浦和市に育つ。「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」キュレーター。古代地中海史(フェニキア・カルタゴ)研究者。博士(文学)。社会福祉士。2014年より実験的ネットラジオ「オムライスラヂオ」の配信をライフワークとしている。2016年より奈良県東吉野村に移住し自宅を私設図書館として開きつつ、現在はユース世代への支援事業に従事しながら執筆活動などを行なっている。著書に『手づくりのアジール──土着の知が生まれるところ』(晶文社)、妻・青木海青子との共著『彼岸の図書館──ぼくたちの「移住」のかたち』(夕書房)、『山學ノオト』シリーズ(エイチアンドエスカンパニー)などがある。

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