「コスパ」と「スマート」の行き着く先にある「疎外」 「他人から必要とされているのか否か」をやめる

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僕はスマートシティ構想のように、衣食住すべてをデータ化することで手間を省き、行動のコスパを考え、さまざまな意味で最短距離で物事を進められるようになることが、社会を良くすることにつながるとは考えていません。

そうなってしまったら、なんだかもう現代において人間に必要な能力は「ボタンを押すタイミングを知っていること」くらいしか残っていないでしょう。ボタンを押すと機械化されたシステムが動き出す。人間が手作業でするよりもよっぽど正確で速い。

僕たちはそのシステムの中でいかに間違えずに生活するか、勉強するか、働くのかということばかり気をつけて生きていくことになりそうです。そして、それをうまくこなせるのが「社会人」の定義になる。

「賢い選択」が招く「疎外」

「社会人」は無駄なことはせず、できるだけコストをかけず、他人に迷惑をかけず、一番「賢い」選択をします。でも正直、これだったら「人間がいる意味あるのかな?」という思いを抱いてしまいます。この感覚に近いのが、マルクスが労働の文脈で使用した「疎外」という言葉です。

労働者は、彼が富をより多く生産すればするほど、彼の生産の力と範囲とはより増大すればするほど、それだけますます貧しくなる。労働者は商品をより多くつくればつくるほど、それだけますます彼はより安価な商品となる。事物世界の価値増大にぴったり比例して、人間世界の価値低下がひどくなる。労働はたんに商品だけを生産するのではない。労働は自分自身と労働者とを商品として生産する。しかもそれらを、労働が一般に商品を生産するのと同じ関係のなかで生産するのである。(中略)労働の実現は労働の対象化である。国民経済的状態のなかでは、労働のこの実現が労働者の現実性剥奪として現われ、対象化が対象の喪失および対象への隷属として、(対象の)獲得が疎外として、外化として現れる。(マルクス著、『経済学・哲学草稿』岩波文庫、1964年、86-87頁、強調は筆者)

マルクスによると、国民経済的状態における労働は労働者の現実性を剥奪すると言います。これが「疎外」です。

なぜこのようなことが起こるのかと言うと、「自分自身と労働者とを商品として生産する」からです。資本主義社会で生きていくことは、僕たち自身を商品化していくことなのです。商品とは交換可能で、他者ニーズがあることを前提にしています。

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