「コスパ」と「スマート」の行き着く先にある「疎外」 「他人から必要とされているのか否か」をやめる

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思えば僕たちは自分と他者を比較し、「自分という商品」が他者と比べてどう勝っているのか、その主張を強いられています。自分の商品価値を上げるため、幼少期から塾やピアノ、バレエ教室など、さまざまな習い事をすることはもちろん、良い大学に入れるように逆算して幼稚園、小学校を選ぶことになります。最終ジャッジは就職活動です。そこで自分に商品価値があるのかないのかが判断されます。

働けば働くほど自分たちは商品化し、「他人から必要とされているのか否か」だけを考えて生きていくことになる。マルクスはこんな社会の生きづらさを、現実性が剥奪される「疎外」という言葉で表現しました。商品でいっぱいになり、「疎外」される社会から抜け出すためにはどうしたら良いのか。僕はそのヒントは、他者ニーズを介さない「個人的な体験」の積み重ねにあると思っています。

「落書き」という「異議申し立て」

僕たちは奈良県東吉野村という、たいそう不便な場所にある自宅を勝手に図書館と言い張っています。なぜ図書館を、と聞かれることが度々ありますが、少なくとも僕たちは図書館を「サービス」(商品)として提供しているのではありません。だからルチャ・リブロは、本当はみんなが知っている「図書館」ではないのだと思います。

かつて神戸に住んでいた時のこと。僕たちの家で友人たちと鍋やタコパ(たこ焼きパーティー)をしていました。「これ、面白いよ」と本をすすめたり、反対に貸してもらったり。実はルチャ・リブロのイメージには、この時の「個人的な体験」が底流しています。ルチャ・リブロは既存の社会的な施設である図書館の役割を担っているのではなく、「個人的な体験」の積み重ねの延長にあるのです。

イギリスの映画監督、ケン・ローチの作品に『わたしは、ダニエル・ブレイク』があります。老齢でひとり暮らしの大工ダニエルは、仕事中に心臓発作を起こし医者から仕事をしないように言われます。彼は支援手当を受給するために役所を訪れますが、煩雑な手続き、電話やインターネットを通じてしか再申請ができない理由などから、給付を受けることができません。やむをえず求職活動をしますが、今まで自分の腕一本で生きてきた元大工のダニエルには、うまくことを運ぶことができません。

この映画では、システム化された役所の手続きをうまく利用できないこと、求職活動において労働市場に組み込まれ、商品としてジャッジされることがいかに人間の尊厳を傷つけるのかが描かれます。大工一筋でやってきた内部疾患を抱える、老齢のダニエルに社会的な価値はない。このことをさまざまな方法により思い知らせるのが現代の特徴です。

結果的にダニエルは、役所の壁に「わたしはダニエル・ブレイクだ」とスプレーで大きく「落書き」します。このシーンは、人間の尊厳を労働市場における有用性だけで測る社会に対する「異議申し立て」なのです。

次ページ「異議申し立て」をして人間としての尊厳を回復していく
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