ミキモトにとって幸運なことに、当時はまさに、シャネルが「本物でも偽物でもミックスしてじゃらじゃらつけるのがシック」とばかりパールファッションを流行させていた時代だったことです。このムードが、評価が揺れていたミキモトの真珠の受容を後押ししたということは十分に考えられます。
物理的な組成が同じであることを本物の条件とするならば、現在、普及が拡大している合成ダイヤモンドも、本物のダイヤモンドの仲間入りをすることになります。
天然資源は有限です。地球環境にも配慮して「新しいラグジュアリー」を考えるときには、資源を枯渇させるまで天然に唯一絶対の本物としての価値を求めるという発想は、どこかで転換しなくてはならないものなのかもしれません。理屈ではそう受け取られていますが、合成ダイヤは今のところ、手頃な価格の代替品の地位に甘んじており、ラグジュアリーにはなりえていないように見えます。
合成ダイヤが養殖真珠になりえない理由
物理的な組成が同じであれば、天然でなくても、合成ダイヤは養殖真珠のようにラグジュアリーになりえてもよいのではないか? なぜなりえないのか?
違いは「ロマン主義的な観点」に立つと見えてきます。
御木本幸吉の、誰も思いつかなかった「養殖真珠」という壮大でクレージーな夢と、それを世に出すまでの長年にわたるとてつもない苦闘、7年にわたる裁判での粘り強い闘い、海女のイメージアップ戦略、デザインにおける圧倒的な美の追求。幸吉の強靭な人間力と想像力を駆使して行われたビジネスのプロセスそのものが、崇高な高揚感をもたらすのです。「天然も養殖も、物理的組成は同じである」という論文で御木本を裁判に勝たせた物理学者も、ひそかに御木本を応援したかったのではとさえ邪推したくなります。
天然ダイヤと組成が同じ合成ダイヤは美しいですが、今のところ、崇高な感覚をもたらしません。そこには、ビジネスを行う人の、ロマン主義的視点を取り入れた何らかのアプローチが必要なのではないでしょうか。
ラグジュアリーは、ロマン主義だけでつくることはもちろんできませんが、物理的条件やマーケティング法則をすべて満たせば成立するというものでもありません。「美」を超えて「崇高」の歓喜に至る、そこに何らかのロマン主義的要素が求められるということです。
ジュエリー界の判断はいったんさておき、ファッションの知財の話に戻しますと、シャネルがコスチューム・ジュエリーをファッション化したことで、(洋服・バッグと同様に)シャネルのロゴをつけたアクセサリーのコピー商品も大量に出回ります。
それに対してシャネルは、「コピーされることは本物の証」としてまったく動じませんでした。世が本物/偽物をめぐって右往左往すればするほど、彼女自身のブランド価値は高まっていったのです。
「モード、それは私よ」と言い切り、修道院育ちであるというオリジンに立った自分が生み出すものは、世間の評価を覆してさえ本物になる。そんな創造を続けたシャネルのロマン主義的な態度は、ラグジュアリーをつくり出す側のインスピレーションの源泉にもなるはずです。
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