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キャリア・教育 #松下幸之助の珠玉の言葉

幸之助は、なぜ新しい政党を作らなかったのか 直訴の「熱心さ」「一押し」が運命を分けた

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  • 江口 克彦 一般財団法人東アジア情勢研究会理事長、台北駐日経済文化代表処顧問
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しかし、O氏は、諦めなかった。友の会を作ることによって、松下さんの、日本をよくしようというその思いを広める一助にもなる。O氏は、それからも数回、直訴した。

すると、何回目かのとき、ついに松下がこう言った。

「あんたが、そう考えるんやったら、一度、やってみいや。けどな、あんたが、中心になったらあかん。中心は、あくまでも会員の人たちや。あんたは、事務局長、そういうことでやろう」

ついにO氏の提案を松下が了承したのである。彼のその後の大活躍は、ここに記述するまでもない。のちに松下が、大いに喜び、みずから彼を呼んで状況を確認、助言するようになった。

あのような程度の志ではあかんな

もうひと押しだった、という例もある。

最近まである政党の幹事長をしていたY氏。彼は、松下政経塾の2期生。入塾面接は、松下と塾頭と私、ほかが面接官だった。Y氏は、頭脳明晰、快活な青年であった。声が大きかったことを覚えている。日本を良くしたい、政治を変えたいというのが、志望の説明。松下の質問は、「酒を呑むか」「何になりたいんや」「寮生活やけど、我慢できるか」などであったと記憶している。すべての面接が終わって、合否会議。彼は、全員一致で合格決定、もちろん、松下幸之助も◎をつけていた。

その後、政経塾に入った彼の塾活動は、群を抜きほかの塾生を圧倒していた。
彼が入塾して3年経った頃だと思う。既存の政党では、日本の改革はできないと思いつめた彼は、松下に、新党を作るよう直訴した。何回、彼が直訴したのかは私にはわからないが、そのつど松下は、「まずは、人間を磨け、人間の本質をつかめ」と答えたという。実際、松下幸之助が政経塾で塾生たちに最も学び、身につけてほしいと願ったのは、松下の「人間観」であったからだ。

「塾生は、わしの考えた“人間観”を理解し、身につけるだけでいい。あとは、まあ、皆、もともと優秀やから、勉強せんでもいいわけや」

こう言っていたから、Y氏に対する松下の答えは、当然であった。

さはさりながら、松下が、Y氏の直訴にひそかに期待していたのは確かだ。というのは、昭和57(1982)年の3月、政経塾をつくって2年後、松下は「政経塾では間に合わん」から政党を作る、ついては、立党宣言、趣旨、綱領、党則を作るよう、密かに私に指示し、その準備をしていたからだ。しかし、Y氏はそれを知らず、直訴を諦めてしまった。このことはY氏から聞いたのではなく、松下から後日聞かされた。

「あの若者は、今、何をしとるんやろ。政党を作ろうと、わしのところに、数回来たけどな、あのような程度の志ではあかんな。禅宗のお坊さんになるために、まず、三日三晩、雨や雪が降っても、玄関先で手をついて坐り続ける、それでも先輩の僧から、帰れ帰れと罵倒される。そうやって、やっと認められるわけや。まして、政党を作るということであれば、なおさらやろ。あの若者な、この頃、わしのところへ来んようになった」

あとひと押しであったと思う。もう数回、直訴を繰り返していたら、私の作業は、Y氏に移り、具体化されていたかもしれない。松下は立党準備金として100億円を考えていた。

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