東洋一のマンモス団地「松原団地」60年経った今 建て替えが進み…大きくイメージが変わった

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一見華々しいスタートを切ったように見える松原団地であったが、大規模開発には当然のことながら課題もつきものだった。ほかの大規模な日本住宅公団建設の団地で起こっていた問題と似たようなものとしては、鉄筋コンクリートの乾燥が甘かったために害虫が発生したほか、上水道整備が間に合わずに早朝と昼の1~2時間と夜しか給水されないという日々もあった。

ほかにも、松原団地特有の大きな問題が2つあった。1つはD地区西側に1967年に開通した国道4号線草加バイパスの騒音、もう1つが梅雨から秋の時期にかけて発生した冠水・浸水といった排水の問題だ。特に排水の問題は20年以上住民を悩ませた。

はじめての冠水被害は1966年に発生したといわれる。主な要因は農業用水として綾瀬川から分派して開削された伝右川の排水機能低下にあった。大雨が降ると綾瀬川に伝右川の水が排水できなくなり、逆流する。それが松原団地に流れ込むのだ。

長らく松原団地の住民を冠水で悩ませた伝右川(筆者撮影)

毎年梅雨から秋にかけて少しでも大雨が降ると松原団地は冠水に悩まされた。特に伝右川に近いC地区やD地区での浸水は夕立で20ミリ程度雨がふるとすぐにひざまで水につかるほどだった。

冠水被害は年々悪化

冠水・浸水被害は1980年代まで年々悪化していった。その主な理由は周辺の都市化だ。

松原団地造成後、草加市内の農地は着々と住宅や工場、道路に転換されていった。そのため、農地が果たしていた遊水機能は失われていく。その結果として農業用水として開削された伝右川に近い元低湿地帯の松原団地に流れ込む水が増え、冠水・浸水が激しくなったのだ。つまり、松原団地では都市型洪水が日常的に発生していたといっても過言ではないだろう。

事態を打開すべく、住民も動いたが、本格的に対策が始まったのは1979年10月に発生した台風10号で草加市内の広い範囲が浸水してからだった。綾瀬川水系の広い範囲で越水や洪水が起きたことが要因で、排水機能を向上させるべく、綾瀬川や伝右川をはじめとした綾瀬川水系で護岸工事や排水機場整備が行われた。

特に松原団地にとって大きな効果があったのは、1985年9月にC地区南側の市道地下に完成した最大6600立方メートルの貯水槽と同年10月に貯水槽の隣接地に完成した松原排水機場だろう。この2つの施設が完成した後、冠水・浸水は大幅に改善した。さらに1992年の綾瀬川放水路完成により、冠水・浸水被害は完全に過去のものとなった。

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