東洋一のマンモス団地「松原団地」60年経った今 建て替えが進み…大きくイメージが変わった
松原団地は4階建ての中層住棟と専用庭付きメゾネットタイプの住戸で構成される2階建ての「テラスハウス」と呼ばれる住棟の合計324棟から構成され、おおむね1500戸を1地区とし、東からA地区、B地区、C地区、D地区と名付けられた。
A地区の東側には東武伊勢崎線(現在の東武スカイツリーライン)が南北に走り、松原団地の入居開始と同じ頃に松原団地駅(現在の獨協大学前<草加松原>駅)が開業した。東武伊勢崎線は同じ年の5月に営団(現在の東京メトロ)日比谷線の人形町駅まで乗り入れを開始していた。日比谷線はその後、1964年8月に全通し、都心と松原団地が電車1本で結ばれるようになった。
団地の住民はこの松原団地駅を利用して通勤するサラリーマン世帯が多いと想定され、街路や地区計画も駅の開業を念頭に置きながら作られた。わかりやすい部分でいえば、駅前に地区センターを作り、駅前からD地区まで緑道でつなぎ、緑道に沿って各地区に集会所や商店地区が設けられた。
家賃もかなり高額だった
このように一体的な住環境づくりができることが大規模住宅団地の強みであり、さらに各住戸も鉄筋コンクリート造の住棟にダイニングキッチン、水洗トイレをはじめ最新の設備が入っていた。当然ここまでのことをすれば総工費も高額で、小学校などの公共施設を除いた日本住宅公団が建設した部分の工事費だけで83億円(土地買収費含む)かかっている。
そのため家賃も高額で、当時の大卒国家公務員の月収が1万5700円という中、一番コンパクトな間取りの1DK(33平方メートル)でも月5650円、共益費600円だった。それでも初回の入居募集780戸に対して1万725件の応募があった。倍率にすると13.75倍というのだから驚きだ。当時いかに「団地」が憧れの住宅であったかがうかがえる。
入居した世帯はどんな人たちだったかは、1965年に発行されたパンフレットに掲載されている世帯主のデータからうかがうことができる。全戸のうち1人世帯はなく、36.9%が2人世帯、34.1%が3人世帯と実に7割が核家族であった。職業や通勤地にも大きな偏りがあり、職業は85%が会社員、通勤地は96.7%が東京23区内、中でも丸の内・銀座・品川で57.1%を占めていた。世帯主のほとんどは「埼玉都民」の会社員だったのである。
草加市が大規模住宅団地の計画に協力した大きな理由にホワイトカラー層の流入による市税増収があった。まさに期待どおりの人々が5000世帯以上も移り住んできたのである。
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