フィリピン大統領の故郷に中国領事館がある理由 マルコス大統領一家の故郷・北イロコスの現在

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事件の経過はこうだ。シニアの父、つまりボンボン氏の祖父マリアノ・マルコス氏は戦前下院議員を2期務めたが、落選。返り咲きを狙って1935年の選挙に出馬したものの、再び落選した。ところが対立候補で再選を果たしたフリオ・ナルンダサン氏が選挙結果判明直後に何者かに狙撃されて死亡した。

マルコス・シニア氏が勾留されていた部屋。物置のように使われていたが肖像画は健在だ(写真・柴田直治)

その容疑者としてシニアが3年後に逮捕され、現在の裁判所の地下に勾留された。父の選挙運動を手助けするため帰省中だったシニアは、勝利を祝うナルンダサン氏側がマリアノ氏を侮辱するような凱旋パレードをしたことに激怒し犯行に及んだとされた。シニアは大学で射撃部の主将を務めており、当時の新聞は「名門大学の主将の引鉄」について書き立てた。

裁判所には、「大統領への岐路」とのプレートが掲げられた一角がある。シニアが勾留されていた部屋だといい、「歴史的な場所として記憶にとどめるために残す」と記されている。室内はきちんと保存されているわけではなく、なかば物置のように使われているが、若き日のシニアの肖像画が壁にかかっていた。

マルコス一家にとっての武勇伝

マルコス氏は勾留中の半年で猛勉強し、司法試験をトップで合格した。その記録は今も破られていない。法廷では被告である本人が、自身の弁護士役も務めた。地裁は有罪判決を下したが、最高裁では「証拠不十分」で逆転無罪を勝ち取った。裁判長は日本の軍政下で大統領を務めたホセ・ラウレル氏。若きシニアの才能を高く評価し、無罪に導いたとされている。

私はこれまで、この殺人事件にからむシニアの話は、マルコス家にとって忌むべき出来事と考えていたが、違った。ラワグから南に15キロメートル下ったシニア出身の町バタックにある「フェルディナンド・E・マルコス大統領センター」の展示には、「学生時代」「戦争時代」「下院議員時代」「上院議員時代」などと並んで「裁判の時代」というコーナーがあり、殺人事件の容疑者として逮捕されてから無罪になるまでの経緯を資料や写真、新聞記事をあしらって誇らしげに展示してある。思い起こしたくない過去ではなく、大統領への道を歩むうえでの武勇伝であり伝説の序章なのだ。

同センターの最後のコーナーは「11日間のロマンス」と題して、シニアとイメルダ夫人との馴れ初めや電撃結婚のいきさつを紹介している。さらにイメルダ氏の靴のレプリカをはじめ夫妻の着た服などを並べている。

同センターにはかつて、客死したハワイから運ばれたシニアの遺体が安置されていたが、2016年11月、マニラ首都圏の国立英雄墓地に運ばれ埋葬された。シニアの独裁体制下の人権侵害被害者らの反対を押し切り、ドゥテルテ前大統領がマルコス家の希望を聞き入れた結果だった。展示の「目玉」を失ったセンターからは客足が遠のき、さらにコロナによる閉鎖で厳しい運営を余儀なくされた。しかし2代目の大統領就任で再び客足も戻りつつある。学校の集団見学も増えてきたという。

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