これは悪に手を貸す臆病な行為などではないし、表現の自由をあきらめることでもない。さらに一部が主張しているような、節度の欠如などでもない。寛容とは弱さを示すものではないのである。
寛容によって示されるのは、絶対的な社会の価値観に対する抵抗、あるいは世界を善と悪に二分することへの抵抗だ。
シャルリー・エブドの編集者や漫画家を殺害した男や、ユダヤ教のコーシャ認定食品を扱ったスーパーで4人を殺害した犯人の心理的動機は推測する以外にない。女の子やサッカー、聖戦参加でもらえるあぶく銭といった青臭い夢に破れたみじめな負け犬だったのかもしれない。傷つきやすい若者が、革命家の大義を受け入れて権力意識や帰属意識を持つのは、彼らが初めてではない。
感情の傷など、殺人とは比べものにならない
冒涜(ぼうとく)的態度や預言者への愚弄がシャルリー・エブド襲撃やヴァン・ゴッホ氏殺害の主な理由だとする意見があるが、私は懐疑的だ。多くのムスリムが冒涜的な映画や漫画を見て侮辱されたと感じたのは間違いないだろう。だが感情の傷など、殺人とは比べものにならない。
批判的な考えを持つ人を残忍な方法で脅すのは、革命家グループの目的の1つにすぎない。第1の目的は多くの仲間を集めることなのだ。イスラム原理主義者なら、平和的で法を守るイスラム教徒が自分たちの信じる宗教に関係のない社会と和解することを無理にでもやめさせなければならない、と言って。
そのために効果的なのは、ニューヨークのツインタワーのような象徴的ターゲットを攻撃し、その反動から来る反イスラム主義を引き起こすことだ。欧州に住むムスリムは、恐怖や拒絶感を覚え、大多数を占める非ムスリムに包囲されていると感じる気持ちが強くなるほど、過激派を支持しようと思うようになる。
私たちが先月の襲撃事件からイスラムと西洋が戦争状態にあると結論づけたなら、それはイスラム聖戦士たちの大勝利を意味する。平和的な多数のムスリムを革命家の暴力に立ち向かう仲間として受け止め、完全に平等な市民の一員として彼らに接するならば、私たちの民主主義はより強さを増すことだろう。
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