誰も本心では信じていない民意に全てを委ねる訳 「国民の意思」がデモクラシーを崩壊させる
また、マスメディアの政治部の記者やジャーナリストがこれまた本心から「民意」を正当なものと信じているとも思えない。その危うさなど、普段からいやというほど見聞きしているだろう。政治家やジャーナリストがもし本当に民意など信じているとすれば、われわれは、とんでもなくナイーブで子供じみた情報環境に置かれているということであり、それこそが恐るべき事態というほかない。
ナチスは民意の支持を得て政権をとった
にもかかわらず、われわれは「民意」なるものを擬装し、その前にぬかずき、そこで思考を停止する。どうしてそんなことをするのか。これも答えは簡単で、民意とは何かを問うことはまさしくデモクラシーとは何かと問うことであり、民意の正当性に疑問符を突き付けることは、デモクラシーの正当性を疑うことになるからである。
政治家もマスメディアも、まさしく、デモクラシーという土俵の上で仕事をしている。当然、この土俵を疑うわけにはいかない。土俵が崩れれば、彼らの存在意義もなくなってしまう。どんなりっぱな金魚でも金魚鉢が壊れてしまえば生きることはできない。だから彼らは、自らが信じてもいない「民意」なるものを、信じたことにするほかないであろう。この擬装によって、デモクラシーを成立させようとするのである。
ところが「民意」なる言葉を絶対化してしまったために、逆に、デモクラシーまでもが崩壊することもありうる。きわめてわかりやすい例をあげれば、1930年代のドイツでナチスは圧倒的な「民意」の支持を受けて政権をとった。そしてそれがデモクラシーを崩壊させたのである。
われわれはナチスからも「民意」の危うさを学んだはずであり、それを無条件に信じることなどできるはずはない。にもかかわらずそれを手放すこともできない。こういう奇妙なディレンマに陥っている。本心では信じていない民意にすべてを委ねるほかないのであり、それが、今日の、政治への不信、政治の不安定、政治への無関心、政治のエンタメ化の核心にある。とすれば、これは「民意が政治を崩壊させる」というべき深刻な事態ではなかろうか。
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