生前の瀬戸内寂聴さんが60歳過ぎて挑んだ健康法 歩くようにしたら集中力が増し仕事がはかどった

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しかし、今度はじめて私は一つの健康法に積極的に取り組んだ。理由は、『源氏物語』の仕事が、並大抵ではないとわかったからである。

円地文子さんが、『源氏物語』を訳している最中、二度も網膜剝離の手術をされた姿を思い出した。あの頃の円地さんより、今の私の方がずっと年寄りなのだ。この長丁場を耐えぬくためには、自分で健康管理をするしかない。

えいっと、ねじ伏せて、歩いてみた

そこで発心したのが歩くことであった。机にしがみついて、終日書きつづける生活は、体にいい筈がないのだ。寂庵から仕事場まで、丁度、大堰川添いの道を歩いて一万二千歩、それを道筋によって、五十分か、一時間弱で歩くのだ。やってみたら、実に気持ちがいい。

一時間が惜しくてたまらない気がするのを、えいっと、ねじ伏せて、歩いてみた。スニーカーに作務衣で素手で歩く。相当な早足だ。まだ、風景を楽しむゆとりはない。万歩計と時計だけを頼りに、ただひたすら歩く。苦しくなると不動真言を口ずさむ。これは呼吸法に適っていて、実に具合がいい。

一時間歩いたら、全身汗びっしょりになっている。今のところ、一週間に三度をめどに歩いているが、足腰は回毎に軽くなる。

捨てることから始まる 「寂庵だより」1997‐1987年より (単行本)
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いろんな路を試みて、思わぬ収穫がある。嵯峨野はまだまだ散歩道の宝庫だ。鶯の声を至る所で聞く。まだ幼い声だが、励ましてくれるように思うからいい気なものだ。

一時間損したように思っていたが、集中力がとみに増大して、仕事のはかはぐんとのびた。これで体が悪くなる筈がない。お金もいらず、仲間もいらず、一人てくてく歩くだけだから、誰に迷惑もかけない。わざとお金を持たないで歩く。途中でタクシーなんかに乗ったり、うちへ電話で助けを求めたりしないためだ。

寂庵の女の子たちは、そのうち、一緒に歩こうと言われるのではないかとビクビクしている。私はそんな残酷なことは言わない。独りで天地を所有しているようなあの壮大な解放感がこたえられないからである。 (一九九三年四月 第七十五号)

瀬戸内 寂聴
せとうち じゃくちょう / Jakutyo Setouchi

1922年、徳島県生まれ。東京女子大学卒。1957年「女子大生・曲愛玲(チュイアイリン)」で新潮社同人雑誌賞受賞。61年『田村俊子』で田村俊子賞、63年『夏の終り』で女流文学賞を受賞。73年、岩手県平泉の中尊寺で得度。法名寂聴(旧名・晴美)。京都嵯峨野に「寂庵」を構える。92年『花に問え』で谷崎潤一郎賞、96年『白道』で芸術選奨、2001年『場所』で野間文芸賞を受賞。98年に『源氏物語』の現代語訳を完訳。2011年『風景』で泉鏡花文学賞を受賞。2006年文化勲章を受章。著書に『悔いなく生きよう』(祥伝社)など多数。2021年11月9日逝去。

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