生前の瀬戸内寂聴さんが60歳過ぎて挑んだ健康法 歩くようにしたら集中力が増し仕事がはかどった
最近、新聞で、親の老後を見なければならないと思っている若者へのアンケート調査の発表が出ていて、タイやインドや中国やドイツが、親は当然見るべきだと思っている若者の多いことを示し、日本人が、何と世界で一番「老いた親の面倒を見る必要がない」と答えた若者の多いことを、結果グラフが示していた。
インドの原始経典「スッタニパータ」には、
「両親が老いて衰えているのに、これを養わず、自分だけ豊かに暮らす人がいる。これは破滅への門である」
とある。二千五百年前の釈尊の在世時代、すでに、社会に変動がおこり、都市生活が生れて、それにつれ、親の面倒を見たがらない子が増えてきていたのだろう。だからこそ、こういう戒めも生れたのだと思う。
それでもインドでは、人の家に招かれると、そこには家族が何世帯もいて、豊かであればあるほど、家族の数は多く、次々あらわれて紹介されるのが常である。
そして家庭料理が姑から嫁へ、母から娘へと教え伝えられていて、自分の家の味というものがあり、それを得意になって食べさせてくれる。孫は祖父や祖母の膝に坐りこんで安心しきった顔をしている。
日本ではめったにおめにかかれない家族のあたたかさ
昔、といっても、私の子供の頃、つい、六十年ほど前の日本の家庭もこうだったなという思いで私はなつかしくその様子を見る。
湾岸戦争の時、イラクへ薬やお金を持っていった時も、バグダッドの庶民の家庭へ招待されていくと、ごく小市民的な、日本でいえば実直なサラリーマンの家という感じのせまい家の中に老夫婦と、息子夫婦と、その子三人と、まだ嫁にいかない三人の妹が同居して、和気藹々として暮していた。
そこにはもう日本ではめったにお目にかかれない家族のあたたかさがみちていた。
寂庵へ来る人たちの中で、悩みを訴えるのは、ほとんどが家族との軋轢や葛藤である。
その悩みのもとをさぐっていくと、自分の家族への愛に対して、相手がその半分も応えてくれないという不満にあるようだ。