これぞ西郷の真骨頂である。「もし逆らう者がいるならば……」と西郷は強行突破もほのめかしている。大久保もそんな西郷に勇気づけられたことだろう。西郷が同意した2日後の8日には、大久保と西郷で廃藩の手順を確認。同日に、木戸が藩知事の毛利元徳に伝えて、同意を得ている。
その後は、西郷、大久保、木戸、山縣、井上らで、政治体制について話し合いが行われ、基本方針の確認がなされた。そのときにまたもや、大久保と木戸との間で意見の対立が生まれるが、このときは大久保が譲歩している。もはや待ったなし。廃藩を嗅ぎつけられて抵抗が巻き起こる前に、決着をつけてしまわねばならない。議論している暇などなかった。
こうして廃藩置県は断行されることになった。西郷が山縣に同意してから、わずか8日後のことである。また、当時の最高首脳であった右大臣の三条実美と大納言の岩倉具視が廃藩計画を知らされたのは、断行されるわずか2日前のことだった。
ゲリラ的に行われた「廃藩置県」
明治4(1871)年7月14日午後2時、在京中の56人の知藩知事(旧藩主)たちは突然、呼び出されて、天皇から「億兆を保安し万国と対峙するため」として、こんな詔勅が下されることとなる。
「藩を廃し県と為す」
まるでだまし討ちである。多くの藩知事にとっては寝耳に水だったが、実は午前中の時点で、知らされた藩もあった。
まず、長州(山口)藩知事の毛利元徳、薩摩(鹿児島)藩知事の島津忠義、肥前(佐賀)藩知事の鍋島直大、土佐(高知)藩知事の山内豊範の代理で大参事の板垣退助の4人は、午前10時に、皇居の小御所代に呼び出されている。そこでは、率先して版籍奉還を建議したことが褒めたたえられると同時に、廃藩がいち早く言い渡された。
その後に、名古屋藩知事の徳川慶勝、熊本藩知事の細川護久、鳥取藩知事の池田慶徳、徳島藩知事の蜂須賀茂韶らが呼び出されている。彼らは、廃藩もしくは、知藩事辞職を建議していた知藩事であり、やはり、その建議を褒める勅語が事前に与えられた。そのうえで、14時から皇居の大広間にて、各藩知事に「廃藩置県」の勅語が伝えられている。
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