意外と独断専行ではない「源義経」の戦い方の実態 平家物語で「戦の天才」はどう描かれているのか

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「戦の天才」といわれる源義経はどのような人物だったのでしょうか(写真:skipinof/PIXTA)
NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送で、源氏や平氏の歴史に注目が集まっています。平清盛の死後、破竹の勢いで進撃し、「平家都落ち」を実現した木曽義仲(源頼朝の従兄弟)を討った源義経。「戦の天才」と呼ばれ、独断で突っ走るイメージを持たれがちな義経ですが、実際はそうではないようです。歴史学者の濱田浩一郎氏が解説します。

源義経が後白河法皇から伝えられたこと

源義経は、木曽義仲の軍勢を撃破した。敗将・木曽義仲やその家臣・今井兼平らの首は、1月26日の朝に、七条河原においてさらされる。敗将の定めとはいえ、哀れである。義仲を打倒した義経らであるが、休む間もなく、次の使命を与えられる。平家追討という任務である。

古典『平家物語』は、そのさまを次のように描く。

「寿永3(1184)年1月29日、源範頼(義経の異母兄)と義経は院の御所に参上し、平家追討のために西国へ出立することを言上した。すると、後白河法皇からは『わが国には神代の昔から伝わる3つの御宝がある。八咫鏡、八尺瓊勾玉、天叢雲剣がそれである。よくよく気にかけて無事に都へお返しせよ』との仰せがあった。両人は謹んでこれを承り、退出する」(『平家物語』を筆者が現代語訳))

『玉葉』には1月26日に発向したと記されているので、義仲の首がさらされたのと同日だ。都ではその前夜から、平家が入洛するのではないかとのうわさがしきりに流れていたという。

『玉葉』の著者・九条兼実はそれを「虚言」としているが、混沌とした世相において、人心の動揺がうかがえる。しかし、平家が京に入るとのうわさもまったく根拠のないものではなかった。朝廷は、追討使を派遣する一方で、平家との和議を模索していた節もあるからだ。

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