意外と独断専行ではない「源義経」の戦い方の実態 平家物語で「戦の天才」はどう描かれているのか

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平家との和議がなれば、平家は上洛してくるだろう。朝廷は静賢法印を交渉の使者に立てようとしたようだが、彼はそれを辞退する。

義経らを平家追討に遣わしておいて、自分を和平交渉の使者として派遣する。これは道理に叶わないし、役割を果たすことができないというのだ。もっともな理由であろう。

確かにこのような状況で派遣されたら、静賢もたまったものではない。生命にも関わることである。また、朝廷が平家と交渉しようとしたのは、平家をかばいたいという理由ではなく、三種の神器の安全を想ってのことであった(『玉葉』)。

九条兼実は平家との和議を願っていたようだが、朝廷には追討派もいた。院近臣(法皇の側近)の藤原親信、平親宗、藤原朝方らである。藤原親信は後鳥羽天皇の母の叔父にあたる。後鳥羽天皇の皇位を脅かす、平家が擁する安徳帝の入京を拒むのは当然の心理であろう。

後白河法皇の強い意向で追討を強行

鎌倉派遣軍で「頼朝代官」とされた土肥実平や中原親能は平家との和平案に同意していたが、結局、院近臣そして後白河法皇の強い意向により、追討が強行されることになる。下向の武士は平家軍と合戦することを好まなかったという。義経らの軍勢のなかには伊勢平氏や元・平家の家人も含まれていたので、そうした意見もうなずける。

しかし、法皇からすると、平家が入京すれば、後鳥羽天皇は退位させられ、自身の院政も否定される可能性が高い。法皇が平家追討を願うのもまた当然の人間心理である。

さて平家一門は清盛の三周忌を行うため、福原に入っていた(2月4日)。こうした動きも、平家上洛のうわさに現実味を帯びさせたに違いない。平家は、福原の東方の生田の森と西方の一ノ谷に城郭を構えていた。

2月5日、源範頼と義経の軍勢は摂津に入る。範頼軍は大手(福原の東方)を、義経軍は搦手(福原の西方)から平家軍を攻めることになる。挟撃により、敵を撃滅せんとしたのだ。義経は丹波路に軍勢を進めた。

この動きをつかんだ平家方は、平資盛、有盛、師盛らを播磨国の三草山(兵庫県加東市)の西方に布陣させる。

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