原始的メディアだからできることがある--『私のフォト・ジャーナリズム』を書いた長倉洋海氏(フォトジャーナリスト)に聞く
だから、僕の写真では戦争の状態や難民の生活は少しだけしか見えない。しかし、それで十分だと思っている。テレビなどはすべての答えを用意して、人々に提供する。フォトジャーナリズムはもともと音声もないし、動きもない。そこにはほんの一瞬、1万分の1秒とか何千分の1秒とかで切り取った「絵」だけがある。いわばメディアとしては極めて原始的だ。
むしろそういうものだからこそ、その一枚の「絵」に感動したときに、見る人はくぎ付けになり、立ち止まる。その瞬間の「絵」の前後を知りたくなる。そして、そこではどんな音がして、どんな風が吹いていて、さらに、この人は今どうしているのだろうかと。そういった「見つめさせる力」を持つ、見えないものまで想像させるジャーナリズムでありたい。
──30年にわたり、45カ国以上の現場にカメラを向けています。
2009年までの4年間は5万キロを踏破して、シルクロードを取材した。一部では、うれしいことに、ラクダの背に揺られての探索でもあった。フォトジャーナリズムは幅広い。戦争や紛争に限らず、天変地異も含めて、人間が関心を持つところ、あるいは興味の引かれるところ、そこに出かけていって、その実相を伝える。
その場合、その地域に行って、日本との違いを伝えるのは簡単だ。多くが、民族も宗教も言語も生活様式もすべて違うのだから。それなら、比較できるような情景でありきたりに違いを伝えるよりも、むしろ同じ人間だという視点に立つほうが、彼らの痛み、悲しみ、喜び、そういうものがよく伝わる。
相手が若者ならば若者という視点も大事だ。戦火の中でも、恋をしたい、勉強をしたい、といった点は共通している。最近は若い頃と違って事前にガツガツ調べたりせずに、肩の力を抜いて現地に向かう。そこそこの基礎知識は当然必要だが、むしろ同じ人間として感じたものこそ伝えられれば、と考えている。