大久保利通、意外にも「明治政府で迷走していた」訳 木戸孝允と西郷隆盛が仕切る体制が機能せず

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木戸としては面白くなかったことだろう。権力を集中させるといいながら、大久保は結局、任せてはくれないではないか。

そもそも木戸は人事よりも、制度改革を優先させたかった。話し合いで大久保の意思に反する人事が決まっても少なくとも反対はしなかったのは、木戸なりの意趣返しではなかったか。

現に人事の発表がなされたあとも、木戸はしつこく抜本的な制度改革の重要性を主張。強引に制度取調委員を設置し、大久保のほか、佐佐木高行、大隈重信、井上馨、山縣有朋、後藤象二郎、江藤新平らを任命している。

大久保はいらだったに違いない。大規模な委員会を設置して、制度を調査する必要はないし、政治を今、停滞させるべきではない。

木戸の「そもそも論」にうんざりしたのは、大久保だけではなかった。佐佐木も制度問題に手をつけるのは、優先事項ではないと考えた。

「制度問題はこれまでの調査を少々添削すれば十分であり、このように大勢をかけて調べなくとも、おおよそのことはわかっている」

また岩倉も同じ意見である。岩倉には木戸の見通しに無理があるように思えた。

「木戸は4、5日で調査を終えるといっているが、そんなに早くできるものではないので、各省の人事を優先させるべきである」

制度取調会議は一向にまとまらず

それでも木戸の思いは変わらない。行政を優先させたがる大久保に比べて、木戸は立法権を拡充すべきだと考えており、理想の政治体制をまずは築くべきだとした(前回記事『西郷と大久保がリーダーに推薦「木戸孝允」の実力』参照)。

制度取調会議は西郷と木戸の両参議が議長となり、スタートする。

だが、あちこちでいろんな意見が出て一向にまとまらない。審議は明治4(1871)年7月6日と8日に行われたが、8日の時点で早くも大半の委員が欠席。大久保にいたっては初回から参加していない。

西郷も審議が進まないのをみて欠席がちとなり、とうとう木戸自身も会議にたびたび欠席するようになる。

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