大久保利通、意外にも「明治政府で迷走していた」訳 木戸孝允と西郷隆盛が仕切る体制が機能せず

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もっとも、大久保は場を仕切る立場にないので、西郷を通してアプローチしたのだろう。木戸の意見は退けられて、各省の人事が発令されることとなる。

その決まりつつある人事の内容を知り、大久保は愕然とする。兵部省次官は自身が推薦していた山縣有朋ではなく板垣退助となり、また信任する大木喬任は民部省次官から文部省次官へと転任させられてしまった。

極め付きが、中務省の新設を取り止めると発表されたことだ。中務省は天皇教育と宮中を政府のもとに置くための官庁である。いわば、大久保にとっては官制改革の要であり、こんなふうにさえ語っていた。

「中務省さえ設置できれば何も憂うることはない」

それにもかかわらず、実現できなかったのは、話し合いのメンバーに官制改革に否定的な者が含まれていたからだろう。参議の西郷と木戸以外には、右大臣の三条実美、大納言の岩倉具視、嵯峨(正親町三条)実愛が会議に参加している。

「ムチャクチャの御裁断」と批判した大久保

参議ではない大久保は人選にかかわることができなかった。大久保は岩倉への手紙で「ムチャクチャの御裁断」と批判。昨年末に議論した内容が人事に反映されていないことから、こうも言った。

「今日は今日、明日は明日の都合次第に任せるようなことでどうするのか」

一歩ずつ確実に前進させるのが常だった大久保は、一度決めたことを覆されるのを何より嫌った。確かに木戸と西郷に任せはしたものの、これまでの議論を無視されるのは、納得できなかったようだ。

中務省の新設は叶わなかったものの、大久保は岩倉に働きかけて、自分の希望通りに大木を民部省次官に、山縣を兵部省次官に押し込んでいる。

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