簡単には受け入れがたい巨大な苦難の連続。天野さんはどう向き合って折り合いをつけていたのか。最期の局面まで更新を続けたブログやSNSから見えてくるものがある。
天才少年が奨励会を去るまで
天野さんの半生は闘病中に執筆した自著『オール・イン』に詳しく書かれている。
1985年10月の東京で、サラリーマンの父と高校教師の母の間に1人っ子として生をうける。両親が共働きだった都合から、小学校入学と同時に近所の将棋クラブに預けられるようになり、そこから将棋にのめり込んだ。同年のうちにアマチュア初段に昇段すると、翌年には全国クラスの「上野松坂屋将棋こども大会 低学年部門」に出場して3位になるなどめきめきと頭角を現す。周囲からは天才少年と呼ばれた。
棋士の弟子となり、日本将棋連盟のプロ棋士養成機関である奨励会に入会したのは小学5年生の夏だった。奨励会の位はアマチュアとは別物で、6級から1級、初段、二段、三段がある。プロである四段に昇段するには、半年ごとに実施される三段リーグで上位2名に入る必要がある(一部例外規定あり)。天野さんは17歳になった2002年10月に三段に昇段し、このリーグに参戦する。高校には行かなかった。
(『オール・イン』86ページ)
しかし、そこから10年近く足踏みすることになる。奨励会には年齢制限があり、26歳以降に三段リーグで負け越し、あるいは指し分けになると退会となる。勝ち越しを続けても29歳までが限界だ(こちらも一部例外規定あり)。
あと一歩で昇段という機会もあったが、四段は遠かった。2011年には絶対の自信を持っていた終盤の局面で凡ミスをして星を落とし、「気持ちのなかで何かが切れた」という。退会したら何をやるんだろう?――Twitterのアカウントを取得したのは、プロになれない将来を考えるようになった頃だった。
(Twitter/2011年8月20日)
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