日中の「国交」を50周年で捉えると本質を見誤る訳 正常化とは何を意味するか、日中関係の歴史的視座

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このようにみると、日中の政府間には史上、正式で平穏かつ恒常的な、つまり正常な通交はほとんどない。公式なルートによらない民間ベースの打算的実利的な往来のほうが、はるかに円滑だった。たとえば12世紀から14世紀、日宋・日元の商業交易や学問交流があったし、16世紀の「倭寇」は、経済関係の深まった日明の民間が提携して、政府の統制に反発した活動である。

近世から近現代へ

日中の関係は以上のように、齟齬を免れない歴史をたどった。日本は官民がほぼ同質一体の一元体制だったのに対し、中国は政治と経済をおのおの異質な集団が担う多元的な社会構造で、官民が乖離していたからである。そうした日中の齟齬・矛盾からおこった朝鮮出兵という大戦争を経て、関係安定を模索して行きついたのが、江戸時代の「鎖国」だった。

「鎖国」といえば、日本人・日本史はともすれば当時の「南蛮」「紅毛」、つまり西洋との関係からしかみない習癖がある。しかし当時の西洋諸国は、キリシタン宣教もふくめ、日中の経済関係を仲介しただけの存在にすぎない。その関係から生じがちな軋轢をいかに調整するか、が当時の根本的な重大課題であった。あらゆる方面で政府間の交際をミニマムに制限しつつ、経済関係を損なわないようコントロールする、という「不即不離」の状態保持がその解答であって、それこそ「鎖国」の内実なのである。

その「鎖国」200年のあいだ、列島社会は上下こぞって、中国と西洋を学んだ。漢学と蘭学である。関係が長く、つとにとりくんだ「同文同種」の漢学は、やがてアレルギーを起こし、横文字の蘭学・洋学に目を向けると、むしろこちらのほうがフィットした。けだし日本は、制度・体制の成り立ちや社会の同質性で、中国・ユーラシア世界より西洋に近かったからであろう。

だからこそ19世紀に入っての「開国」、欧米との「国交」樹立も、穏便に受け入れることができた。激動の幕末維新とはいえ、中国のアヘン戦争以後の歴史と比較すれば、はるかに摩擦が少なかったのは、対比すれば一目瞭然である。そればかりか、のち明治の文明開化で、いや応なく西洋から制度・文物をとりいれた際も、往年の律令制とは異なって、円滑な直輸入が実現しえた。

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