日中の「国交」を50周年で捉えると本質を見誤る訳 正常化とは何を意味するか、日中関係の歴史的視座

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そしてその「国交」のあった時期、日中の間はどれだけ、うまくいっていただろうか。消長こそあれ、「正常」という言葉が与える印象ほど、円滑でなかったことはまちがいない。

にもかかわらず、長年こうした物言いをしたまま疑ってこなかったところに、現代日本人の中国に対する見方の特徴、いな偏向がある。日中の交わり・関係といえば、多くは「正常」な「国交」しか思いつかないのではなかろうか。

それなら今後めざすべき日中関係の機微・含意は、「50」年はおろか、おそらく1500年の歴史を巨細にみなおさなくては認知できない。迂遠な本稿のあるゆえんである。

齟齬は初発から

そもそも日本史は、中国との関係からはじまった。いかに多数の考古学的な遺跡・遺物が存在しようと、それだけで「日本」という集団・国家の成り立ちは説明できない。中国の記録がなくては、姿をとらえることが不可能である。しかもその日本の本格的な成立とは、いわゆる律令体制の構築、すなわち中国の王朝国家のコピーだった。

ところが中国は、遊牧民と農耕民からなるユーラシア大陸の二元構造からその国家社会を作ってきたのに対し、日本はおよそ農耕民の一元社会である。双方はこのように、根本から体制が異なっていたため、中国の制度を日本がコピーしても、およそ板につかない。中国に倣った古代日本の律令国家は、当初より修正を余儀なくされた。まもなく摂関政治・院政・武家政治と、帝制の中国とはまったくかけ離れた政体に転換している。

だから中国は日本の体制を正確にとらえることができなかった。逆も真なり、日本の側も中国を正しく見ることが難しい。これは日中関係初発の段階からそうなのであって、双方の公的関係は、初期・古代から相性がよろしくなかったのである。

以後もその基調は変わらない。13世紀後半のいわゆる「蒙古襲来」はその最たるものだし、その100年後にモンゴル帝国を後継した明朝は、海禁と貿易統制で日本と対立し「倭寇」を引き起こした。そして「蒙古襲来」から300年の後、そのベクトルを逆転させた秀吉の朝鮮出兵で、またもや日中は干戈を交えている。

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