カナダの市民病院が一時「国外」にされた歴史の妙 東ドイツが終わったのは不用意な一言が引き金

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法的な観点でいえば、赤ちゃんは動きまわるシャボン玉のようなものに包まれていて、その中だけは「カナダ国外」として認められた、ということになります。

そして産科病棟はオランダ国旗を掲げ、王女の出産をバックアップする体制が整いました(病院は偶然にも、「ホランド・アベニュー」を見下ろす位置にあったそうです)。

こうして1943年1月19日、マルフリート王女が無事に誕生。ユリアナ王女はのちに、カナダへの感謝の気持ちとして10万個のチューリップの球根を贈りました。

東西ドイツを統一へと導いた「勘違い」

続いて紹介する国は、第二次世界大戦の結果ドイツが二分され、東側陣営として擁立された「東ドイツ」(ドイツ民主共和国)です。

1961年8月12日の夜、突如としてベルリン市内に壁が現れ、街は物理的に真っ二つに分断されます。東側陣営と西側陣営の分断の象徴、「ベルリンの壁」です。

東ドイツでは、すべてが秘密警察の監視下にありました。秘密警察は9万7000人の職員に加え、20万人近い情報提供者のネットワークを有する組織。彼らは本の検閲を行い、電話を盗聴し、西側のテレビを見ないようテレビアンテナの方向をチェックして歩きました。ドイツ語で歌われるポップスにも法的な要件が課せられるなど、国民は厳しい統制下に置かれます。

西ドイツに比べて東ドイツは経済的にも貧しく、バナナを求めて街に行列ができ、アルコール依存症が蔓延。西側陣営との格差は開く一方でした。

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