教養としてのSF小説 「既成概念への疑義」を読む

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人・物・情報が全地球規模で頻繁に行き交う現代、私たちは従来の生活感覚では扱いきれない状況にさらされている。それをまざまざと突きつけられたのが、新型コロナウイルスの大流行だ。

始まりは局所的だが、瞬くうちに世界中へ感染症が広がる。小松左京『復活の日』では、新種の生物兵器MM-八八がアルプス山中で漏洩し、まずイタリアで死者が発生。1カ月のうちに日本や米国にも飛び火するが、当初はインフルエンザと見なされ、誰もが軽く考えていた。

『復活の日』ではパンデミックに続き、核爆弾が発射される(書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします)

しかし、感染力と致死率はすさまじく、経済と都市機能は完全にマヒしてしまう。感染を免れたのは、南極の観測隊員と、潜航中だった英国とソ連の原子力潜水艦の乗組員だけだ。人類の未来を託された彼らは、食糧自給、エネルギー確保、子孫存続計画(女性はわずか16人だけ)……新しい社会を一歩ずつ築かねばならない。

言うまでもないが、SFは未来予測ではないし、危機対応マニュアルでもない。描かれた事柄が後に実現したとしても作品価値の証明にはならないし、そもそも作者は「予測確度」を目指してSFを書くのではない(作中の信憑性さえ確保すれば事足りる)。SFに限らず、フィクションとはそういうものだ。

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