反論は考えられる。
結局、谷口には、野球の才能があったのではないか。その疑いが芽生えれば、努力の物語は少年の心の中に入っていかない。さらに、「努力できることも才能ですよ」という一言で片づけられてしまうかもしれない。
つまり、努力の物語は、成功とともに努力のリアリティが失われると言うジレンマがある。では、作者はどうすればリアリティのある努力の物語を描けるのであろうか。
ちばあきお先生は、それを考えていたのだと思う。
ここに忘れてはならない脇役がいる。谷口が2年生になった時に入部してきた半田である。彼は、野球経験者でありながら、運動神経がまったくない。経験者ということで守備をやらせてみたが、未経験者で入部してきた鈴木よりも下手なのである。彼は、その後もまったく上達せず、対戦相手のデータ収集などもしていたりする。
この脇役に、ちばあきお先生の思い入れがあったことはたしかだ。なぜなら、半田は、野球少年を描いた初期読み切りマンガ「半ちゃん」の主人公なのだから。
このマンガの中で半ちゃんは、野球が大好きだけど下手な少年として描かれている。チーム内の嫌われ者になってしまう運動神経抜群のイガラシくん(!)とは違う。
半田は、選手として活躍できるのか。人知れず努力しているのであろう半田が活躍できるならば、それは努力の成功であるが、同時にリアリティの消滅でもある…。
この問いの結論は、出なかった。ちばあきお先生は、早世してしまったからである。名作『キャプテン』『プレイボール』を前に、結論を待ちながら我々は立ち止まっている。
ちばあきお先生は、半田をほんの少しずつ、少しずつ成長させていた。リアリティと物語の間に成立する「努力」を完成させるために。
そうですよね。だから、半田のその後について、天国にいるちばあきお先生に聞いてみたい。
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