そんな中で専業主夫/婦は羨望の的になっている。現実問題、いまの若者にとってサラリーマン+専業主婦家庭を築くことは難しい。サラリーウーマン+専業主夫はもっと難しいだろう。つまり、専業主夫/婦はもう高嶺の花で、夫婦共働きはしょうがないのだ。
ぼくは共働き夫婦を実態以上に美化したいわけじゃない。疲れて帰っても、フロもメシもネルも用意されてはいない。職場の愚痴を言いたくても、相手だって事情は同じ。「メシくらいつくってくれよ」なんて古い価値観を持ち出せば「アンタが私を養えるくらい稼いでくれればね」とでも言われるのがオチ。それで幸せを感じられるよう努力するか、婚活でマシな条件を追い求めるか。
1960年代の日本外交も婚活も、採るべき「戦略」は同じ
とはいえ、ぼくも「初めから専業主婦を目指さず、とりあえず働いておけ」という婚活の提唱者たちの意見には賛成だ。保革の対立の厳しかった1960年代、永井陽之助という政治学者は、「日本外交における拘束と選択」という論文を発表して、日本外交は行動選択の幅を広く残す戦略を採るべきだと説いたことがあった。これと同じだ。
いくら自分が専業主婦になりたくて、いまはそれに見合うリソースを持っているように思えても、将来どう事情が変わるかわからない。いつか八方ふさがりになるリスクは避けるべきなのだ。リスクを低減させ、よりよい結婚相手を選べ。愛なんてクソクラエ。結婚すると決めたなら、当然のことだ。
でも、これで終わりじゃない。結婚の潮流はこれからも動き続ける。これからの変化は、一言で言えば公共的展開だ。少子高齢化が止まらないこの社会では、子どもを産むかどうか、どのように子どもを育てるかといったような、かつては私の問題だと思われていた事柄が個人レベルでは片付けられなくなってきている。家族のかたちをめぐる保守と革新の挑戦は、家族のスタートとしての結婚にも波及する。ここでも叫ぶことは同じ。愛なんてクソクラエ。もはや愛なんてウルトラ私的な次元で物事は解決できない。
婚活原理主義は、結婚って観念に没入するってことじゃない。どういう結婚を、家族を、社会を目指すのか、社会全体で考えながら、ひとたび結婚を目の前にすれば、短期的ビジョンにのっとって冷徹に相手を選ぶ。そんな態度こそ、いま求められているのだ。
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