意外と知らない「中央区・港区・新宿区」の深い歴史 東京生まれ・東京育ちでも勉強になる最強雑学

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中央区・銀座4丁目交差点の風景(写真:momo / PIXTA)
 日本の中心として、あるいは暮らしの場として、誰もが知っている「東京」がいかにして今の姿になったのか……。その素顔に出会うと、今までの景色が違って見えてきます。「東京のすべて」を知るために必要な365の知識が収められた『1日1ページ、意外と知らない東京のすべて365』より、本記事では中央区・港区・新宿区の意外と知らない歴史をご紹介します。

中央区は江戸時代に整備された埋め立て地

銀座と日本橋がある中央区は、江戸時代に埋め立て地を整備して以降、経済や金融の中心として栄えてきた場所だ。江戸城の城下町として数多くの武士や町人が暮らし、歌舞伎などの町人文化も盛んになる。現在も銀座の三越や、東銀座の歌舞伎座は人々でにぎわっており、中央区は経済・文化の両面で、時代の最先端を歩み続けている。

中央区は区名が示すとおり、東京23区のほぼ中央に位置する。区のほぼ西端にある銀座駅を起点として、東京メトロ銀座線は三越前駅、日比谷線は小伝馬町までが中央区であり、都営新宿線の馬喰横山駅、大江戸線の勝どき駅などが区内に含まれる。

江戸時代には、現在の大手町周辺に広がっていた日比谷入江の東側に当たり、「江戸前島」と呼ばれた砂州を埋め立てて、銀座や日本橋は造られた。江戸幕府の城下町として埋め立て造成された中央区域は、大名や旗本らが住んだ武家屋敷や寺社地が大きく占める地区があった。一方で日本橋を中心とする商業地には町人が多く居住し、日本橋に店を構えた呉服店・三井越後屋は、「日本初の百貨店」、日本橋三越本店となった。

江戸時代の名残を残す地名の一つ「八重洲」は、現在の千代田区丸の内あたりに屋敷があったオランダ人商人、ヤン・ヨーステンの和名「耶楊子(やようす) 」に由来するとされる。明治時代に八重洲町が採用されたのち一度消滅するものの、昭和に入り再び「八重洲」と名付けられた。

日本を代表する商業地・日本橋兜(かぶと)町は、1873年に実業家・渋沢栄一(1840~1931)によって第一国立銀行が創設され、戦後、東京証券取引所が設立されると「日本のウォール街」と呼ばれて今日に至る。その地名の由来は平安時代にさかのぼり、武将・源義家(1039~1106)が奥州(東北地方)を攻めた際、現在の兜神社(中央区日本橋兜町)付近で海によろいを沈めて水の神様に願ったところ暴風雨がやみ、帰り道に兜を埋めて神を祀ったという伝説が残る。

中央区は町人文化発祥の地でもあり、江戸歌舞伎は、1624年に中村座の猿若勘三郎が中橋南地(日本橋と京橋の中間)で櫓(やぐら)をあげたことに始まる。さらに市村座が続き、森田座や山村座が上演を公認された。江戸時代中期以後、 芝居見物は現在の中央区内の堺町、葺屋(ふきや)町、木挽(こびき)町の3町に限られたため、4座が集まって江戸っ子らしい気風を育んだ。

次ページ戦後の1947年に「中央区」が誕生した
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