神社や寺が「あんな場所」にある知られざるワケ 日本各地にある「聖地誕生」のルーツを探る

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この上表文からは、空海が密教修行に最適とされる「深山の平地」という地形にこだわっていたことがわかる。空海がいう「密教経典(原文では「禅経」)」が具体的になにを指すのかは不明だが、「深山の平地」は世俗から隔絶され、かつ出家者だけのコミュニティをつくりやすく、修行には格好の環境だろう。その点、険阻な山稜に取り囲まれた小盆地である高野山は、空海の眼には理想的な土地として映ったにちがいない。

少年時代に親しんだ旧知の土地

また空海は、高野山は少年時代に親しんだ旧知の土地だとも述べている。空海は四国出身だが、青年時代に私度僧として仏門に入ってからは山野を跋渉して単独で密教修行に取り組んだと考えられている。そうした遍歴時代に高野山を訪れることがあり、その地形を熟知していたのだろうか。空海の願いはまもなく勅許され、弘仁9年(818)冬には空海は高野山に登り、道場空間を清浄に保つための結界を行い、堂塔の建設に乗り出した。

(図版:筆者作成)

このように、高野山に真言宗の本拠地となったのは、俗界から離れた山の上に広い平地があったこと。そうした地形が大きな要因だったのである。

奥の院には空海の廟所があるが、空海はここで今も生きたまま禅定を続け、一切の生命を救済していると信じられている。

和歌山県の北西にある高野山に対して、南東には全く異なる古代からの信仰がある。それが熊野地方に現在も残る巨石を御神体とする原始信仰だ。これは磐座信仰と呼ばれるもので、石が神霊の宿る依り代として考えられた。特に知られているのが、熊野速玉大社の摂社・神倉神社の御神体のゴトビキ岩や花窟神社の御神体・花の窟などである。これらの聖なる巨石は紀伊半島南東部に集中している。

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