中国共産党政権は、1950年代を通じてこの分断の固定化を打開しようとするが、アメリカを警戒するソ連の全面支援を得られなかった。この台湾をめぐる温度差を一因として、中ソ関係は1960年代以降急速に悪化した。それにつけいる形でアメリカは対中接近に乗り出し、1979年に米中国交正常化が実現した。1972年の日中国交正常化もこの文脈に沿っておこなわれたのである。
中華人民共和国との国交正常化に際し、日米は中華民国と正式な外交関係を絶った。しかし、アメリカ議会が1979年に台湾関係法を採択したことにより、アメリカ政府は引き続き台湾の安全保障に責任を負うこととなった。
アメリカの台湾に対する安保面でのコミットメントが続く限り、いつまでたっても内戦の完遂による「祖国統一」を実現できないという現実に焦燥感を募らせていた中国側は、1990年代にさらなる難題に直面する。それは1980年代以降台湾内部で進展した民主化に伴う台湾ナショナリズムの表面化である。
1995~1996年に米中が一触即発の緊張状態に
台湾が中国との統合という軌道から外れ、「分離独立」に向かうかもしれないというシナリオに危機感を覚えた中国共産党首脳部は、1995年から1996年にかけて台湾海峡で大規模な軍事演習を繰り返すことで台湾世論を牽制・恫喝しようとした。ところが、それに対してアメリカが2つの空母打撃群を派遣したため、当時まだ時代遅れの海軍・空軍しか持ち合わせていなかった解放軍は、台湾海峡での演習を止めざるをえなかった。
米中が一触即発の緊張状態に陥った1995~1996年の台湾海峡危機は、台湾海峡をめぐる安保の構図が1950年代より変わっておらず、台湾との国家統合をはたすには台湾周辺海域で米海軍に対抗できるだけの軍事力を保持せねばならないという認識を中国共産党首脳部に植え付けた。そして、この認識が今日まで続く中国における軍拡の重要な促進剤となってきたのである。
中国共産党を軍拡へと向かわせたほかの要因としては、1989年の天安門事件に象徴される政情不安、1991年の湾岸戦争による対米警戒感の高まり、東欧やソ連における社会主義政権の崩壊が増幅させた「西側の陰謀」に対するパラノイアなどを挙げることができるが、1990年代半ばの台湾海峡危機は、海軍・空軍の増強に重点を置くという軍拡の方向性を決定づけたといえよう。
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