「鬼滅の刃」の鬼殺隊に孤児が多い歴史的背景 主要キャラクターの半数は両親を失っている

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『鬼滅の刃』の主要キャラクターが生まれた時代には、東京にいくつもの貧民街が形成されていた。このかつてあった貧民街の近くの出身者と考えられるのが、我妻善逸だ。公式ファンブックでは、善逸の出身地は牛込區(区)となっている。牛込區は昭和22年(1947)まであった區で、貧民街があった四谷區の隣だ。

ほかの主要キャラクターが悲惨な境遇を紹介されているのに対して、善逸の出自や家族について作中で語られることはなかった。また、公式ファンブックでは主要キャラクターの好物が紹介されているが、ほかの者たちが具体的な食べ物を挙げているのに対して、善逸の好物は「甘いものや高いもの(うなぎなど)」と書かれている。さらに第143話では元兄弟子の獪岳から「相変わらず貧相な風体をしてやがる」といわれている。このことから幼少期に貧しい境遇だったと推測できる。

普段は感情の起伏が豊かでひょうきんな印象の善逸だが、第57話では善逸の精神の核がある「無意識の領域」が真っ黒である描写があり、その性格とは裏腹に心の闇の深さがうかがえる。そして、第163話では、善逸が「本物の捨て子ならおくるみに名前も入れねえよ 俺みたいにな」と語っており、捨て子だったことが明かされた。東宮御所に隣接した貧民エリアには多くの寺院があった地域でもある。そして、寺院は捨て子スポットでもあった。こうしたことから善逸はこのエリアに捨てられた可能性が高い。

時代が生み出した鬼たち

貧民や孤児が社会問題化する中で、富国強兵を推し進める新政府にとって、社会福祉政策は後回しにされた。また、社会的弱者への救済は「惰民(怠け者)を生む」という自己責任論から、行政における福祉サービスは進まず、もっぱら民間の篤志家に頼ることになった。社会局が編纂した『児童保護事業の概況』では、大正14年(1925)になっても公営の育児院は全国でわずか2つしかなかったが、民間の育児施設は117もあった。鬼殺隊が過ごした幼少期における孤児の保護は、ほぼ民間で進められていたのである。

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鬼殺隊を率いる産屋敷耀哉も、鬼や病気・事故などによって肉親を失った孤児を鬼殺隊に入れて養育しており、隊員たちからは父のように慕われている。鬼殺隊が社会的弱者の受け皿として描かれていることは、当時の社会情勢と合致しているのだ。

一方で、数少ない民間の保護施設に入ることができなかった貧民や孤児たちの一部は、やがて犯罪に手を染めるなどして社会に害をもたらす「鬼」となった。『鬼滅の刃』でも、人間社会から救いの手を差し伸べられなかった者や、人間によって不幸となった人々は鬼舞辻無惨によって鬼となっているのである。

『鬼滅の刃』大正鬼殺伝奇考編集部
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