「鬼滅の刃」の鬼殺隊に孤児が多い歴史的背景 主要キャラクターの半数は両親を失っている

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物語のスタートは大正時代のはじめとされることから、公式ファンブックにある主要キャラクターの年齢(最年少の14歳〜最年長27歳)から逆算すると、鬼殺隊の隊員は明治20年代から30年代生まれと推定できる。実はこの時期は、東京においてストリートチルドレン(孤児のホームレス)が社会問題化した時代でもあった。

明治30年代の神田小川町の様子。『鬼滅の刃』に登場する主要キャラクターは明治20〜30年代生まれだと考えられる(画像:国立国会図書館)

明治28年(1895)に刊行された安達憲忠の『乞児悪化の状況』には、頭の良いストリートチルドレンは窃盗をして逮捕され、牢屋で養われることになり、無知な子供や障害がある子供は街頭で病気となり収容される状況が記されている。さらに、ストリートチルドレン出身者は早く結婚して子供を産みすぐに離婚をして、その子供を捨ててしまうので、一年ごとに捨て子の数は増えていったと解説されている。明治時代の捨て子は最盛期には全国で5000人以上に上った。

なぜ『鬼滅の刃』のキャラクターたちが生きた時代にストリートチルドレンが多かったのか。それは帝都・東京には江戸時代にはなかったいくつもの貧民街が形成され、「スラムの都」ともいえる状況だったからである。

戦争が生み出した貧民と孤児

慶応4年(1868)にはじまった新政府軍と旧幕府軍勢力による内戦・戊辰戦争では、江戸の街が戦火に見舞われる恐れがあった。4年前の元治元年(1864)に京都で起きた禁門の変では、市中での戦闘の最中に火災が発生して、実に京都市中の3分の2が焼失した。このため、新政府軍が江戸に迫る中、禁門の変の事態を知っている大名や旗本が、いち早く屋敷を放棄して江戸を離れると、経済的に余裕がある町人たちも家財道具を大八車に積んで市内から脱出した。100万都市だった江戸の人口は半減し、日常物資の運搬も滞るなど、都市機能は完全に破壊されてしまったのだ。いわゆる「上級国民」である支配層・富裕層がいなくなり、貧民層の多くは江戸・東京に残った状態だった。

このことは新政府が、旧体制にとらわれることなく改革を行うことの一因ともなったが、江戸時代にはない貧困都市としての側面を東京は持つことになったのである。

『東台大戦争図』(部分)。慶応4年(1868)に現在の上野公園で繰り広げられた上野戦争の様子。大名や高級役人、富裕層などはいち早く江戸から避難した(画像:国立国会図書館)

さらに孤児を急増させたのが、江戸時代にはなかった対外戦争である。明治27年(1894)の日清戦争、明治37年(1904)の日露戦争、大正3年(1914)の第一次世界大戦などでは、多くの戦没者遺族が生まれた。第135話では、鬼殺隊最強とされる岩柱・悲鳴嶼行冥の過去が描かれているが、行冥は鬼殺隊に入る前に9人の孤児を小さな寺で育てていた。

行冥が柱となったのは19歳の時なので(第138話)、逆算すると明治30年代後半頃に鬼殺隊に入ったと推測される。この時期は、日露戦争(明治37〜38年)の影響で戦災孤児が急増した時期である。行冥が保護した子供たちもまた日露戦争の戦災孤児である可能性が高い。

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