日本の「反ワクチン運動」がどうも異質に見える訳 同じ世界観にのめり込む享楽こそが至上の価値

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仮に、ワクチンの安全性を論じるならば、厚生労働省が昨年12月の時点で延べ290人に対しワクチンによる健康被害の救済認定を行ったが、その妥当性について海外の状況とも比較しながらより詳細な実態の把握を政府に求めるのが筋だ。

また、子どもの接種の必要性に関しても国会で議論するよう政治家に圧力をかけるべきだが、ブラザートンが述べたように陰謀論支持者は(闇の政府による人口削減計画といった)「架空の陰謀家という生贄をつくることで、現実的で修正可能な問題から人々の注意をそらす」方向に仕向ける。

そうなると根気強い市民活動などが必要になる事実の検証などはどうでもよく、ただ同じ世界観にのめり込むことで得られる享楽こそが至上の価値となってしまう。確かに、社会運動ですら当初達成が目指されていた目的が後退し、運動そのものの充実感だけを追い求めるようになることがある。

自他をリスクにさらすような暴走に発展する恐れも

わたしたちは、コロナ禍を通じて、真偽を問わず敵を確定したい誘惑に抗いづらくなっている。現実の社会における課題は、その解決プロセスも含めて、往々にして退屈でつまらないものだからだ。団結という強力な麻薬に対する免疫が弱まっている。バラバラになった人々の心を容易に結び付けるのは、今やパニックを誘発する恐怖でしかない。

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人類が絶えず虚構によって駆動され、集合によって歓喜してきた歴史を踏まえれば、これも危機的状況に対する正常な反応の一種ともいえるが、自他を不必要なリスクにさらすような暴走に発展する恐れもある。これは自粛警察や感染者叩き、ワクチン未接種者への差別などにも当てはまる構図だ。しかし、間もなく2年を迎えるコロナ禍において、心の平安を保つことができること自体がぜいたくな代物になっている現状では、これらの誘惑に打ち克つことは相当に困難であることも肝に銘じなければならない。

真鍋 厚 評論家、著述家

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まなべ・あつし / Atsushi Manabe

1979年、奈良県生まれ。大阪芸術大学大学院修士課程修了。出版社に勤める傍ら評論活動を展開。 単著に『テロリスト・ワールド』(現代書館)、『不寛容という不安』(彩流社)。(写真撮影:長谷部ナオキチ)

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