アダム・スミスは『道徳感情論』のなかで、この点に触れ、所得水準が「ある水準」を超えると所得が伸びなくても人々は必ずしも不幸になるわけではないといった趣旨のことを述べています。平成期の日本人の所得はその「ある水準」を超えていたため、所得の上昇がなくても、精神的な満足さえ得られれば十分という側面もあったのだと思われます。劇作家の故山崎正和先生は、生前、「平成期を通じて経済は低迷したけれども、日本人の精神には成熟が見られた」と述べておられましたが、私も同意見です。
「定常経済」を迎える準備が整った?
ひょっとしたら、われわれは「定常経済」(成長はしないけれども、環境に対する負荷はかけない経済)への精神的準備が整ってきたのかもしれません。実際、政府が加速主義的な方向で積極的な景気刺激政策を進めているにもかかわらず、現実の経済は成長せず、(良く言えば)落ち着いた形で進んでいる。そして、国民は、かつての急激な右肩上がりではなく、成長しないけれども安定している経済状態に慣れてきたともいえるのかもしれません。
むしろ、多くの国民は、このまま加速主義的な政策を続けた場合、日本の行く先、いったいどういう将来が待っているのか、たとえば、若い世代の年金は確保できるのか、バブルが崩壊したとき、どのような痛みが生じるのか、財政が破綻した場合、これまでのような生活が続けられるのかといった、今後のことを心配しているのではないでしょうか。
さらに言えば、加速主義によってハイパーインフレが起きたり、バブルが崩壊したり、異常気象が頻発したりするようになると、人々の意識が劇的に変わるのではないでしょうか。「無限」の欲望追求から、豊かな精神世界を求めるといった方向へ向かって、一種の「精神革命」が進行する可能性があるのではないでしょうか。「加速主義」的な政策によって資本主義的な副作用がさまざまな形で顕在化してくれば、それが世界の精神革命の一つのきっかけになるかもしれないのです。
これは「無限から有限へ」という意識革命が進むということを意味します。誰もが気づき、取り組まなければならないと考えていたことが、何らかのきっかけで現実のものになる、そういう時期が近い将来に発生する可能性があるということです。
紀元前500年の頃、つまり、「枢軸時代」とヤスパースが名付けた時代に、ソクラテス、釈迦、孔子など、世界各地で偉大な思想家が同時的に現われました。なぜ、このころに、互いに直接つながっていない世界の各地で同時的にこれらの偉大な思想家が登場したのでしょうか。
はなはだ興味深い現象ですが、京都大学の広井良典教授によれば、これは、当時、世界各地で物理的な量的拡大が進み、人類が資源・環境制約に直面したためだと指摘しています。そのため、量的な拡大ではなく、より質的、精神的、文化的な成熟へと人間社会が転換する必要があったからだといいます。もしこの指摘が当たっているとすれば、それは「無限」から「有限」への転換という現代世界が直面している状況と非常によく似ていると言えるでしょう。
いわば、「無限」を追求する近代の精神構造が、物質的には「有限」ではあるけれども、文化的・精神的にみればより豊かな生活を追求する新たな精神構造へと転換する時期が来るかもしれない、現在はそういった意味での「精神革命」への準備段階だと言えると思います。
そして、世界の人々は薄々、その必要性に気づいていると思うのです。それがいつ、どういうきっかけで起こるのかは予測できませんが、大きな歴史の流れとしては、ここで述べてきたような「精神革命」の波が押し寄せつつあるとみるのが妥当ではないかと思うのです。
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