最初は黒澤さんのもとに行ったんですが、途中から黒澤さんが(旧ソ連との合作映画)『デルス・ウザーラ』に入ってしまった。僕は助監督の経験もな かったので、(ソ連に)連れていってもらえなかった。これじゃダメだと思い、何人か別の監督の下で助監督の仕事をやったのですが、これなら写真の方がいい かなと辞めようと思っていました。でも黒澤さんが戻られて、『影武者』を撮影することになった。やはり黒澤さんに付いていきたいという思いがあったので、 作品に参加し、それからはずっと黒澤さんの映画だけをやってきたようなものです。
黒澤さんとの時間は楽しい日々だった
――しかし、『影武者』当時の黒澤監督といえば、作品を発表するペースは5年に1本くらいだと記憶しています。黒澤さんの映画だけをやるのは、生活面で大変だったことはないのでしょうか?
大変でしたね。高校の友人などにも「かすみを食ってるのか?」と言われたりもしましたよ。でも、うちは子供がいなかったので、うちの(家内)が何とかやりくりをしてくれました。仕事のない時には、黒澤さんのゴルフのお供をしていました。僕はゴルフはやらないのですが、男3、4人ぐらいで別荘に行って。先生がゴルフに行っている間は、僕は料理当番みたいな感じで、一生懸命料理を作ったりしていました。別荘に2~3カ月は行っていましたよ。
――ゴルフで2、3カ月?
ゴルフだけでなく、たとえば庭の手入れをしたり、家のまわりに柵を作ったり。あと薪割りも。夏になるとちょっと野菜を植えてみようかということで、キュウリを植えたりもした。
できるだけ黒澤さんの側にいました。黒澤さんと一緒の時間を過ごせることが僕にとっては貴重な体験でしたから。というよりも、こんなこと、ほかの人が望んでもやれることじゃない。外国の監督だってなかなか会えない人なのに、僕は毎日一緒にいて、話をたくさん聞けたわけですから。それはもう本当に楽しい日々でした。
――奥さまはそういう暮らしを許してくださった?
自由にやらせてくれましたね。「行く」と言えば「行っていいわよ。どうぞ、どうぞ」と(笑)。稼ぎもしないで何をやっているんだとは言わなかったですね。だから、それは僕にとってありがたいことでしたし、非常に貴重な経験でした。現場で教わることができないようなことまでいろいろと教わったという気がします。
――黒澤さんというと、脚本を大事にしているというイメージが強いですが、そういった脚本の書き方や、物語の作り方といった部分もいろいろと吸収されたのでは?
そうですね。黒澤さんはよく「映画の中で一番大事なのは脚本とキャスティング。これを間違ったら、どんなに優秀な監督でもダメだよ」とおっしゃっていました。鉛筆と紙さえあれば脚本は書けるわけですからね。ですから、脚本を書いては黒澤さんに「ちょっと見ていただけますか?」と持っていき、読んでもらいました。それを褒められればうれしかった。もう映画になんかならなくてもいいとさえ思っていました。
――黒澤さんに褒められたいという一心だったと?
褒められたいんですよ。褒められればもう有頂天になってしまう。もちろん「ここはこうした方がいいよ」といったアドバイスもおっしゃってくださる。「もっと具体的にここは書かなくちゃダメだよ」とか「導入シーンはいいけど、あとのシチュエーションはもっと細かくやらなきゃダメだよ」とか書いてくれたりするんですね。
――贅沢な環境ですね。
そうですよ。本当によかったなぁ(笑)。そういう人に出会えたということが大きいですよね。
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