三菱自動車「ラリーアート」ブランド復活の真意 第1弾はトライトンとパジェロスポーツを発表

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小
標準モデルと差別化を図るべく、フロントグリル、アルミホイールをブラックで統一。インテリアには、ラリーアートのロゴや、オーバーロックにレッドアクセントをあしらったフロアマットを採用する(写真:三菱自動車)

自動車メーカーが表に立って競技活動を再開することが難しい状況のなか、1980年代に入り、A・コーワンを代表にラリーアートはまず欧州で設立され、次いで日本でも設立されることになり、ラリー競技への復活が成った。

三菱自動車のほかにも、日産自動車の「ニスモ(ニッサン・モーター・スポーツ・インターナショナル)」が1984年に設立され、1979年にはマツダオート東京のスポーツ相談室が転じて「マツダスピード」、1988年にスバルの「STI(スバルテクニカインターナショナル)」が設立されている。1960~1970年代にかけて、自動車メーカーが雌雄を決する場として考えられてきた自動車競技は、排出ガス対応によって中断されたあと、より幅広い人々の参入が促され、自動車メーカーは支援するかたちをとるようになった。それがラリーアートやニスモ、あるいはマツダスピードやSTI誕生の背景にある。なおかつそれらは、かつての自動車メーカーチームの代替としての立場を担うことにもなった。

1980年代には、排出ガス対策が一段落していたが、石油危機が起こるなどして今度は燃費向上に開発を集中する必要がでたため、自動車メーカーが表立って競技に出ることが憚られたともいえる。

時代を築いたラリーアートのレース活動

それでもラリーアートの活動は、メーカーの研究所などが積極的に取り組むことで画期的な車両を生み出し、競技での好成績に結び付いていく。1980年代末から1990年代初頭にかけて、独創の4輪駆動技術を搭載した「ギャランVR-4」で、1991~1992年にはコートジボワール(象牙海岸)のアイボリーコーストラリーで、日本の篠塚健次郎が総合優勝を手に入れた。1990年代後半になると、「ランサー エボリューション」による破竹の勢いを得て、三菱自動車はドライバー選手権で4連覇を果たす。1998年には加えてメーカータイトルも奪った。

1990年代は、パリ~ダカール・ラリーへも三菱自動車として参戦し、11回の総合優勝をするなかで、1997年に篠塚健次郎、2002~2003年には増岡浩での勝利もあった。ラリーアートの名を冠した競技車両が世界を席巻した、1990年代から2000年代の華やかな時代があった。

次ページベンツの「AMG」やBMWの「M」というブランド
関連記事
トピックボードAD
自動車最前線の人気記事