米国を仮想敵とした首相が卒倒「昭和天皇の一言」 太平洋戦争につながる日独伊三国同盟の舞台裏

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かくて、三国同盟は、事実上締結されたも同然の状態となったが――この最終局面で、日本とドイツのあいだに、大きな対立が生じた。

9月21日、リッベントロップ外相がイタリアとの協議の末に詰めた条約案が提示されたのだけれど、それは、侵略行動を受けた場合に宣戦し、相互援助するという修正がなされていた。つまり、自動参戦義務がより明白に規定されていたのである。

かかるリッベントロップの提案を受けて、9月21日から23日にかけて、松岡と、ドイツ側のシュターマーおよびオット(駐日ドイツ大使)は、連日交渉を重ねた。が、自動参戦義務以外にも、どういうかたちで細目を定めるかという点などでも一致せず、はかばかしい進捗はない。

加えて、24日、参戦は自主的に決定すると定めた交換公文(交渉中、秘密議定書から、こちらの形態に切り替えられた)は受諾しがたいとのベルリンの回答が日本側に渡され、ここに来て、三国同盟は暗礁に乗り上げたかにみえた。

ところが、24日の晩、松岡・シュターマー・オットの三者会談で、ドイツ側は、にわかに自主的参戦を認めたのである。昼間のドイツ本国からの回答と矛盾する変化であった。

独断専行で日本側に譲歩したシュターマー

この謎を解くヒントとして、先に述べたごとく、シュターマーとオットは、2人とも日本の自主的参戦に反対していなかったことを思いだしていただきたい。

彼らはすでに、参戦は自動的義務ではなく自主的な検討によるものとする日本側の主張に同意するような言質を与えていたし、そうしなければ海軍の反対にあって、またしても同盟不成立になりかねないと考えた。そのため、特使シュターマーは、本国の訓令に反すると知りながら独断専行し、日本側に譲歩した――。

今日の歴史家たちが、最も合理的なものとして示す解釈である。

事実、三国同盟締結後の10月にシュターマーは帰国するのだが、オットより、自主的参戦を定めた交換公文について、リッベントロップの了解を求めてくれと請われていたのに、その約束を守ろうとはしなかった。ゆえに、ドイツ政府は長らく交換公文の存在を知らなかったのではないかとする論者もいるほどだ。

次ページ最初から独善的な誤認を含んでいた
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