米国を仮想敵とした首相が卒倒「昭和天皇の一言」 太平洋戦争につながる日独伊三国同盟の舞台裏
もし、そうだとすれば、日本側は自主的参戦の留保を取り付けたと思い込んでいたのに、ヒトラーやリッベントロップは、日本側に自動参戦の義務を負わせたと信じていたことになる。後世の歴史家は、日独伊三国軍事同盟は「不信の同盟」であったと評している。そう、この「不信の同盟」は、最初から独善的な誤認を含んでいたのだった。
1940(昭和15)年9月27日、ベルリンの「新宰相府」の大広間において、日独伊三国軍事同盟は正式に調印された。
ドイツのリッベントロップ外相、日本の来栖三郎大使、イタリアのチャーノ外相が英文の条約に署名する。日独伊それぞれの言語につき、正文を用意していたのでは迅速な締結はおぼつかないと、とりあえず予備交渉に用いていた英文案をそのまま使うよう、松岡洋右が要請した結果であった。
仮想敵であるアングロサクソンの言葉を用いなければ、締約をめざす交渉もスムーズにできない。そんな同盟が、今成立したのである。
内幕を知らない日本国民は喜ぶばかり
しかし、条約の内幕を知らない日本国民は、政府の発表を信じ、マスコミに煽られて、ドイツとイタリアを友邦に得たことを喜ぶばかりだった。
翌9月28日の朝日新聞は、「いまぞ成れり“歴史の誓”」の大見出しのもと、外相官邸で開かれた三国同盟締結祝賀会のもようを報じている。
「『天皇陛下万歳!』『ヒトラー総統万歳!』『イタリア皇帝陛下万歳! ムッソリーニ万歳!』――降るような星月夜、露もしめやかに落ちる麹町区3年町の外相官邸には感激の声がこだました27日の夜であった。三国同盟締結の夜である。
まさしく歴史に残るこの夜の情景――決意を眉宇に浮かべて幾度か万歳を唱えて誓いの杯をあげる日独伊三国の世界史を創る人々、紅潮する松岡外相の頬、高く右手をあげて『ニッポン! ニッポン!』と叫ぶオット独大使、大きな掌で固い握手をしてまわるインデルリ伊大使、条約の裏に“密使”として滞京中のスターマー(シュターマー)独公使がきょうは覆面を脱いでにこやかに杯を乾す。“世界史転換”の夜の感動であった――」
この日から5年後、東京はアメリカ軍の空襲によって廃墟となっていた。
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