米国を仮想敵とした首相が卒倒「昭和天皇の一言」 太平洋戦争につながる日独伊三国同盟の舞台裏
しかし、閣議の経過を上奏するため、宮中に参内した近衛首相を迎えた昭和天皇は、なお醒めた理性を保っていた。昭和天皇は、日独伊軍事同盟はやむをえない、またアメリカに対しても打つ手がないなら、いたしかたあるまいと、一応総理をねぎらいはした。
けれど、「万一にもアメリカと事を構えるようなことになった場合、海軍はどうだろうか。よく自分は、海軍大学校の図上演習では、いつも対米戦争は敗けるということを聞いたが、大丈夫だろうか」と前置きしたのちに、恐るべきご下問を投げている。
総理大臣はこの重大な時機にどこまでも自分と苦楽をともにするか、と。
近衛は、このとき、昭和天皇の深慮に目頭が熱くなるほど感激したと述べている。だが、彼の胸に去来した感情は、それだけだったか。あるいは、大日本帝国が滅びることなどないと、たかをくくり、流されるままに三国同盟に賛成したおのれの醜悪さを、鏡に映されたかのように見せつけられた羞恥と悔恨はなかったか。
「国民もさぞ難儀することになるだろうね」
もう1つ、昭和天皇と近衛の、三国同盟に関するエピソードがある。当時、近衛のかかりつけの医師だった武見太郎(戦後、日本医師会会長をつとめる)が語った話だ。
三国同盟が決まった1940(昭和15)年9月ごろ、陪食ののちに昭和天皇に誘われ、近衛は天皇と2人で庭を散歩していた。そのとき、昭和天皇に、三国同盟が結ばれることになった、これで国民もさぞ難儀することになるだろうねと言われ、近衛は卒倒してしまったというのである。
けれども、日独伊軍事同盟というバスは、好むと好まざるとにかかわらず、日本人を乗せて、猛スピードで発進している。
9月19日の御前会議は、アメリカの反応や対ソ政策への影響について、軍令部総長伏見宮元帥や原嘉道枢密院議長から疑問が呈されたものの、結局三国同盟締結を裁可したのだ。
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