気候変動が「国境閉鎖や戦争リスク」を高める理由 「国民国家」と「国境」の歴史を変える「人新世」

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世界の多くの地域では、国境の歴史は、文明や帝国、さらには16世紀から17世紀にかけての近代的な国民国家の勃興の歴史と密接に結びついている。世界最初のパスポートを導入したのは古代ローマ人だとよく言われるが、人々の移動能力は特権と権力に基づいて制限されており、それを可能にしたのはユダヤ人をはじめとする少数民族の大量追放と、大陸をまたにかけた奴隷制度だった。国境は一般に、人々をその場に留めておくためのものだった。とはいえ欧州の内外における国境の経験は、場所によって、かなりまちまちだった。

1648年のウェストファリア条約は、国民国家(認知された国民と統治システムを備えた、確立された国境に囲まれた領域)の誕生の一里塚だったと、よく言われる。この条約は、国際的な国境や、国家主権、民族自決などの確立に向けた道を開くのに役立った。同条約は30年にわたる紛争の終結後に締結されたもので、平和の実現および複数の国々の自治や独立、領土の保障を目的としていた。これによってスイスはオーストリアから、オランダはスペインから独立し、スウェーデンなどの国々は領土を拡大した。

だが、これとは異なり、部族や共同体の境界線を侵害される経験をした人々もいた。16〜19世紀には、数百万人の西アフリカ人が、奴隷労働を可能にするためだけに、欧州人の手で南北アメリカ大陸に送られている。プランテーションや各国に設けられた強制収容所は、人間の捕獲や監禁が行われた恐るべき実例だ。奴隷制度だけではない。植民地を抱えた大国は、ほかに誰を入植させるのかを熱心に管理しようとした。本国で人口が増えすぎ、食料不足になるのではないかという不安から、一部の欧州人は海外の植民地に派遣されることとなった。

19世紀になると、その同じ欧州の国々が、移民の入国を不安視し、国境管理を厳格化する。20世紀前半には、パスポートも再び導入された。奴隷制度と植民地主義が公式に終了した後になっても、世界中の先住民族やアフリカ系の人々の暮らしは、法的、政治的、経済的な障壁や規制によって制約されたままだった。18〜19世紀のアメリカにおける先住民保留地の創設は、何千という先住民や部族の強制移住(「涙の旅路」として知られている)と再定住に支えられたものだ。保留地は辺境に位置していたため、これらアメリカ先住民の部族は、入植者や政府が最低限の価値しかないと見なす場所に閉じ込められることとなった。

「人新世」で激化する対立

気候変動が焦眉の急となり、新型コロナウイルスのパンデミックが発生したこの新時代においては、国境閉鎖や戦争の可能性がますます高まっている。

国家や地域社会が、「ウイルス性の他者」や「見えない敵」から自らを隔離しつつ、競争上の優位を得ることを望むからだ。マスクの原料の合成ポリマー繊維から、バッテリーや電話技術に必要な希土類鉱物に至るまで、資源に対する興味と関心は高止まりしたままとなるだろう。

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