いやね、この時に起きたことを、私は生涯忘れないでしょう。
あいかわらずガッチャンガッチャンと何か1つずつ印刷している小さな事務所の扉を開けたとたん、お母さんがパッとこちらを見て「良かったわ~、お仕事うまくいっているのね!」と、抱きつかんばかりの勢いで寄ってきたのである。
え、どういうこと? っていうか、なんでお母さんそんなこと知ってるの? っていうか知ってるもなにも、そもそもうまくいっているわけでもなんでもない。もともとゼロだった仕事が1つ、また1つと、カメの歩みながらポツポツ入るようになってきたということだけのことである。
でも次のお母さんの言葉を聞いて、私はハッとしたのであった。
「名刺が早くなくなるっていうのは、お仕事がうまくいってるってことよ!」
……なるほど。そう言われてみれば、確かに仕事がなければ名刺を配る場面もないのである。配る相手がどれほど「配っても絶対ムダ」としか思えないヤカラであったとしても、名刺を配る場面があること自体が有り難いことなのだ。うん、私は確かに「うまくいっている」のだという気がしてきた。
そして何よりも、お母さんが喜んでくれたことそのものが、私はひどく嬉しかったのである。
だってですよ、会社を辞めて一人になり、これといったスキルもなく安定した仕事のあてもない身としては、誰かに喜んでいただく場面などほとんどないのである。お母さんの笑顔は貴重な宝物だった。なるほど人とは人を喜ばせることが本質的に好きなのである。っていうか、それなくしてはなかなか前を向いて生きていけないのである。
そうとわかれば、名刺を配るのがもったいないなんて言ってる場合じゃなかった。
今の私がすべきことは、この新しく作った100枚の名刺を一刻も早く配り終え、一刻も早く再びこの印刷所に新しい名刺を注文することである。そして再びお母さんの笑顔を見ることである。私はその笑顔のために一生懸命仕事をすれば良いのだ。
名刺を配り、頂いた仕事を懸命にこなしてお金を稼ぎ、そのお金でもって、私こそがこの小さな印刷所をがっちり支えていこうじゃないか! って、もちろんそれほどの力もないが、少なくともこれからはそれをモチベーションに元気に生きていけばいいんじゃないのかね?
「お金」に対する考え方が変わった
これは、私には革命とも言える出来事であった。お金というものに対する考え方がくるりと変わった瞬間であった。
それまでずっと、お金とは1円でも多く貯めるべきモノと考えていた。そして物事とはすべてブンドリアイなのだからして、自分が得するためには人様には多少泣いてもらわねばならないと当たり前に思っていた。それは宇宙の法則みたいなもんであり、世の中は綺麗事じゃ済まないんだから仕方ないと思っていた。
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