ぼくたちが「資本の原理」から逃げ出すべき理由 奈良県東吉野村で生まれた「土着の知」の行き先
「社会の外」に出ることは、現代社会を覆っているルールが見えてくることでもあるし、なにより「資本の原理」ではない「別の原理」の存在に気がつくことでもあります。またお金という「万能ツール」の強大な力を相対化し、お金は一つのツールでしかないことを暴く行為でもあります。
だからといって、ぼくは「社会の外」が「本当の世界」だと言っているわけではありません。社会の内も外も、本当の世界です。本来、世界はそれだけ多様なはずです。現代社会はお金の力によってシンプルで均一なような気がしますが、そんなことはありません。「社会の外」には、まだまだ「意味がわからないもの」が存在できる余地はあります。「意味がわからないもの」をどうやって知覚するのか。その際のキーワードが「感性」です。
白井さんも以下のように言っています。
自分の「感性」を「手づくり」する「土着」
現代社会の内側で思考しているうちは、すでに価値が決まっているもの(既製品)しか生まれてきません。一度「社会の外」に出て、物質自体の価値を自分の「感性」によって吟味すること。
それはつまり価値判断を他者に委ねるのではなく、自らの手に取り戻すことを意味します。自分にしか判断がつかないから、その物質の価値を見いださねばならないし、他者にていねいに説明する必要も出てくる。
ぼくは社会の内と外を行ったり来たりする、「土着」が重要だと思っています。「土着」することは自分の「感性」を「手づくり」することでもあります。たぶん、自分の「感性」は資本の原理との終わらない「闘い」を通じて、時間をかけて「手づくり」していくものなのです。ルチャ・リブロはその「手づくり」のためのアジール(避難所)でもあります。本書はそれぞれが「土着」のきっかけを掴むために、絶好の「武器」となってくれるのです。
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