ぼくたちが「資本の原理」から逃げ出すべき理由 奈良県東吉野村で生まれた「土着の知」の行き先

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「なぜ毎日窮屈な服を着てぎゅうぎゅう詰めの電車に乗って会社に行かなければならないのでしょうか。『資本論』はこの疑問に答えてくれます。私たちが生活の中で直面する不条理や苦痛が、どんなメカニズムを通じて必然化されるのかを、『資本論』は鮮やかに示してくれます。(中略)なぜみんなこんなに苦しみながら、苦しまざるを得ないような状況を甘受して生きているのか。「それは実はとてもバカバカしいことなのだ」と腑に落ちることが大事なのです。腑に落ちれば、そのバカバカしさから逃避することが可能になります。「ヤバかったら、とりあえず逃げ出そう」となれば、うつ病になったり、自殺してしまったりというリスクから身を遠ざけることができます。」(4頁)

白井さんは、ぼくたちに苦痛を強いる現代社会のルールを『資本論』が解き明かしてくれると言います。中でも重要なことは、「『資本論』を読むとリスクから身を遠ざけることができる」という点です。この「身を遠ざけること」を、ぼくは『手づくりのアジール』において「『闘う』ために逃げる」と表現しています。それは「資本の原理が支配する世界」から「別の世界」に行ったきり戻らないのではなく、いったん「身を遠ざける」ことで今まで絶対視していた「資本の原理」の全貌を掴み、「闘う」ために準備し始めることを意味しています。

ちなみに、この場合の「闘う」は相手を殲滅することではありません。大事なことなので、少し長いですが『手づくりのアジール』を引用します。

つまりぼくが考えたいのは、対立を終わらせる方法ではなく、対立を続けていく方法です。それは傷つけ合うことを目的とするのではなく、二つの原理を保つための「闘い」です。近代的な総力戦・殲滅戦だと捉えてしまうと、それは違います。二つのうちどちらかが滅亡するまで完膚なきまでに叩き潰すのではなく、闘う相手がいることによって社会が存続していくことを前提にした「闘い」。最終的な決着・解決を目指すのではなく、いったんは勝ち負けが決まるけれども、また再び始まるような「闘い」です。「闘い」を通じて問題を明るみに出し、それをきっかけにコミュニケーションを誘発する。すると、そこに物語が生まれるのです。闘うことを目的とした「闘い」。終わらせてはならない「闘い」です。(33頁)

「山村で自宅を図書館として開く」という迂回路

さて、「資本の原理」に侵されてしまうと、人はすべてを「商品」としか見ることができなくなってしまいます。商品はすべて金銭で交換可能です。地縁、血縁の力が強かった前近代の社会と違って、近代社会で成立した商品は老若男女、誰でも手に入れることができるという意味でとてもフェアです。買い物によって人は自由を感じることができますし、それこそがお金という「万能ツール」の本質です。

青木真兵(あおき しんぺい) /1983年生まれ、埼玉県浦和市に育つ。「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」キュレーター。古代地中海史(フェニキア・カルタゴ)研究者。博士(文学)。2014年より実験的ネットラジオ「オムライスラヂオ」の配信をライフワークにしている。2016年より奈良県東吉野村在住。現在は障害者の就労支援を行いながら、大学等で講師を務めている。著書に、妻・青木海青子との共著『彼岸の図書館──ぼくたちの「移住」のかたち』(夕書房)、『山學ノオト』『山學ノオト2』(共にエイチアンドエスカンパニー)のほか、「楽しい生活──僕らのVita Activa」(内田樹編『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』所収、晶文社)などがある(撮影:西岡潔)

しかしすべてが商品によって構成された社会や生活は、テレビやYouTube、街中の広告で知る、憧れの芸能人がつけているものを手に入れることができる一方で、「世の中は商品で構成されている」と思い込んでしまうのです。

自分たちの身の回りの物はすべて購入可能であり、そのお金を稼ぐ仕事につければ自由は増し、お金を稼げなければ自由な生活を送ることができない。これがフェアな社会であり、お金を稼げない人は努力が足りない、自己責任だ。現代ではこういう論調がともすれば主流になっています。

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