ぼくたちが「資本の原理」から逃げ出すべき理由 奈良県東吉野村で生まれた「土着の知」の行き先
白井さんは、ぼくたちに苦痛を強いる現代社会のルールを『資本論』が解き明かしてくれると言います。中でも重要なことは、「『資本論』を読むとリスクから身を遠ざけることができる」という点です。この「身を遠ざけること」を、ぼくは『手づくりのアジール』において「『闘う』ために逃げる」と表現しています。それは「資本の原理が支配する世界」から「別の世界」に行ったきり戻らないのではなく、いったん「身を遠ざける」ことで今まで絶対視していた「資本の原理」の全貌を掴み、「闘う」ために準備し始めることを意味しています。
ちなみに、この場合の「闘う」は相手を殲滅することではありません。大事なことなので、少し長いですが『手づくりのアジール』を引用します。
「山村で自宅を図書館として開く」という迂回路
さて、「資本の原理」に侵されてしまうと、人はすべてを「商品」としか見ることができなくなってしまいます。商品はすべて金銭で交換可能です。地縁、血縁の力が強かった前近代の社会と違って、近代社会で成立した商品は老若男女、誰でも手に入れることができるという意味でとてもフェアです。買い物によって人は自由を感じることができますし、それこそがお金という「万能ツール」の本質です。
しかしすべてが商品によって構成された社会や生活は、テレビやYouTube、街中の広告で知る、憧れの芸能人がつけているものを手に入れることができる一方で、「世の中は商品で構成されている」と思い込んでしまうのです。
自分たちの身の回りの物はすべて購入可能であり、そのお金を稼ぐ仕事につければ自由は増し、お金を稼げなければ自由な生活を送ることができない。これがフェアな社会であり、お金を稼げない人は努力が足りない、自己責任だ。現代ではこういう論調がともすれば主流になっています。
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