来日26年で倒産も経験「シディーク社長」逆転人生 東京タワーにパキスタン料理店を出すまでに再起
「それなら、セントラルキッチンをつくろうと思い立ったんです」
1カ所の施設で基本的な調理を行い、それを各店舗に配送するセントラルキッチン方式なら、味の安定化と人員の効率化を図れる。そう考えて、葛飾区にあった中学校の食堂跡地を再利用して稼働を始めたのだが、いったん減ったお客はなかなか戻らない。施設の維持費用だけが膨らんでいく。
そんな折に、セントラルキッチンの設備を見た日本の業者から「ハラルのパウチ商品を生産しないか」と持ちかけられる。イスラムの戒律で食べることを許されたハラル食品は、日本に住むイスラム教徒が急増していたこともあって需要が増していた。チャンスだと思った。
「増産のための資金を銀行で借り入れして、勝負に出たんです」
しかし、思ったほどにはさばけない。経営はどんどん傾いていった。さらに今度は、非常食の製造という仕事も引き受けたのだが、何十万食という量を生産したところで機械の不具合から商品にミスが見つかり、納品できずに大打撃を受けたりもした。
会社を畳んだが、国に帰ろうとは思わなかった
あれこれと手を広げてみたが、もう限界だった。こうしてミアンさんは2016年に、会社を畳んだ。店はほとんど人に譲渡した。
「でも、国に帰ろうとは思わなかったんですよ。もう日本も長いしね」
仕事や実家の用事でパキスタンやほかの国に行くと、3日もすると日本が恋しくなる。成田空港に戻ってくると、すぐにうどん屋や寿司屋に駆け込む。温泉が大好きで、「必ず民宿に泊まるんです。あの朝食がいいでしょう」と力説する。それに会社が苦境の真っ最中だった2012年に日本に帰化したほど、この国になじんでいた。
そのときにつけた日本名の「味庵」は、本名のミアンにちなんだものだ。「味」に関わる商売をしていることから、会社の日本人スタッフに考えてもらったという。
「それにね、“アジアン”とも読めるでしょ」
日本人もパキスタン人も、同じアジア人。そんな気持ちと、名前を与えてくれた日本で、どうにかもう一度やり直したかった。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら