来日26年で倒産も経験「シディーク社長」逆転人生 東京タワーにパキスタン料理店を出すまでに再起

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めきめき語学力を伸ばしていったミアンさんは大学に進学するも、いちはやく自分の商売を立ち上げたいという気持ちが大きくなっていく。せっかちなのである。それに雇われるのではなく、自分で会社を回したい、経営者になりたいという独立心は、日本に住む外国人に共通している部分でもある。そして来日わずか2年で、起業に挑むのだ。

「アルバイト先のマネージャーから支援してもらって、私のほかにパキスタン人とインド人、3人で会社をつくったんです」

飲食業での経験を活かすため、そして故郷の味を提供したいと、パキスタン料理店「シディークパレス」の1号店を新宿御苑に出店する。しかし、お客は思うように入らない。最初の1カ月の赤字は92万円に膨らんだ。

この額に怖じ気づいてしまったほかの2人は、やっぱり店を閉めようと提案してきたが、ミアンさんは譲らなかった。やはりパキスタンから来日してきた弟、それにコックと、必死で店を切り盛りした。

「レストランのそばにアパートを借りていたんだけど、そこで弟とコックが寝て、私は車の中で寝るんです。部屋があまりに狭くて3人は入れなかったし、ほかにアパートを借りるお金もなかったしね」

そんなことを楽しげに思い出す。しかも夜のアルバイトも続けていて、そのお金でコックの給料を払った。つまり昼のランチ営業から夜11時まで自分のレストランで働き、それから深夜のバイトに出て、朝方に帰ってきて車の中でまどろむのだ。

「そのころは26歳。若かったよね」

10年あまりで26店舗の飲食チェーンに

そんな奮闘もあって、店は次第に利益を生むようになっていく。順調に売り上げを伸ばし、都内各地に系列店舗の出店も進めた。そして10年あまりで26店舗の飲食チェーンを築き上げたミアンさんは、やり手の外国人経営者としてメディアの取材を受けるようにもなった。

暗転したのは2011年のこと。きっかけは東日本大震災だった。「シディーク」各店で雇っていたパキスタン人、インド人、ネパール人のコックたちが次々と帰国してしまったのだ。津波の映像や、放射能の報道を見た母国の家族が「日本はもう崩壊するのではないか」と心配したからだった。

「当時150人くらいのコックがいましたが、90人が辞めてしまったんです」

そこで新しいコックを何人も雇ったのだが、教育係がいないのだ。店の味を支えてきたベテランたちは帰国してしまっていた。だから新人をいきなり柱として登用せざるをえず、安定していた「シディーク」の味が変わっていく。お客が離れていく。

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