視点を変えられる人と思い込みが強い人の決定差 「正しく見られない」から始めたほうが楽しい
【スラヴォイ・ジジェク】
スラヴォイ・ジジェクという哲学者がいる。彼は2000年代に、世界で最も注目されている哲学者となった。そんな彼に、「知識人のロックスター」とあだ名が付けられた。そして多くの若者たちが、ジジェクの影響で哲学書を読むようになった。インターネットで検索すると、ジジェクの講演会、インタビュー、対談が数え切れないほど表示される。
ジジェクは、『斜めから見る』という作品でこんなことを言っている。
「ホルバインの『大使たち』の細長い染みは、私の視野の調和を乱す」
ここで「調和」とは、「固定された視点や観念」と言い換えられる。私たちは、「自分が見たいように見ている」と考えている。しかし、実際は、権力によって「こう見るように」と誘導されてしまうのだ。
【まっすぐ見る】
禅の公案に、こんなものがある。
梅のような木を想像して欲しい。枝はグネグネと曲がりくねっている。その梅の木を前にして、師匠は弟子に問う。
「この木をまっすぐ見てみろ」
そこで弟子は、曲がりくねっている枝がまっすぐに見えるポイントを探そうとする。だが、自然のものに、幾何学的な直線でできているものなどあるはずない。ましてや、相手は梅だ。それでも弟子は、ほぼまっすぐに見えるポイントを探して答える。
「ここから見えました」
しかし師匠は答える。
「違う」
「視点を変え続ける」が大事
そして弟子は、別の「まっすぐに見える」ポイントを探そうと梅の木を巡り、視点を変え続ける。ところが、「ここから見えます」と答える限り、師匠から「ヨシ!」はもらえない。弟子に求められるのは、「まっすぐ」への答えだ。まあ、ここから先は禅の蘊奥なので立ち入らないでおこう。
哲学的には、「視点を変え続ける」が大事となる。
1つの地点を定め、そこから梅の木を見続けることは、決して「まっすぐ見る」ことにはならない。そこから見える枝が、どれほどまっすぐに見えそうでも、それは思い込みや先入観になってしまう。脚立に登って上からこの梅の木を見たり、視野に入る限り遠い地点からこの梅の木を見たり。視点を変え続けることで、いずれ、梅の「まっすぐ」が見られるようになるのだ。
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