視点を変えられる人と思い込みが強い人の決定差 「正しく見られない」から始めたほうが楽しい

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【正しく見る】

最後に、メルロ=ポンティの解説を参照しよう。

「ミュラー・リアーの錯視」という問題がある。ドイツの心理学者フランツ・カール・ミュラー・リヤーが考案した。名前はさておき、この図形自体は広く知られているだろう。

「同じ長さである」の条件が与えられているからこそ

これは「錯視」を問題にしている。つまり、「違う長さに見えるが正しくは同じである」と答えが矯正される。定規で測れば、上下どちらの赤線も確かに同じ長さになる。しかしメルロ=ポンティは、「正しく見る」とか「客観的に見る」より、上の線のほうが長く見えてしまう経験を重視する。

「ミュラー・リアーの錯視において、2つの直線部分は同等でも不等でもない。このような二者択一が課せられるのは客観的世界の中に過ぎない」

「上も下も同じ長さである」と言われれば、私たちはそのように見ようとする。今、私たちが目にしている上下に並べたこの視点から離れ、同じ長さに見えるポイントを探そうとするだろう。そのポイントに至るまで、視点を変え続けるだろう。しかし、「同じ長さである」という条件が与えられているからこそ、それが分かるポイントを探し続けられるのだ。

もし、「同じ長さである」ことを知らされないままだったらどうだろう。そしてもし、たまたまそれがわかるポイントを見つけた時、驚きはどれほどのものだろうか。

『哲学者に学ぶ、問題解決のための視点のカタログ』(中央経済社)。書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします

「見る」は私たちの経験を成り立たせる。「まさに今、見ている景色」は写真の景色とは違う。その地点にどのような身体があるかによって、見える景色は全く異なる。たとえそれが「私」の「身体」であっても、悲しい時と嬉しい時とでは、世界の姿はまったく違って見られるだろう。

【見かけどおりのものは何一つない】

VUCA時代は、「客観的に見られない」「正しく見られない」から始めたほうが、仕事の現場が楽しくなるだろう。アイディアも占有されるこのではなく、共有されるものなるはずだ。「正しさ」や「客観性」は、始めからすでに「誤り」を抱えている。では視点はどうだろうか。視点に誤りはない。ただ別の見方があるだけだ。違う視点は間違った視点ではない。

ジジェクは、「見かけどおりのものは何一つない」と断言する。固定された視点で問題を凝視することは、問題を鮮明にするどころかボヤけさせてしまう。ついでに言うと、こんな凝視を続けては不健康だ。精神的にも負担だろう。私たちが見ている問題は、視点を動かすことで、思いも寄らない姿を見せることだろう。そこが問題解決の突破口になるかもしれない。

大竹 稽 教育者、哲学者

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おおたけ けい / Kei Otake

1970年愛知県生まれ。1989年名古屋大学医学部入学・退学。1990年慶應義塾大学医学部入学・退学。1991年東京大学理科三類入学・退学。2007年学習院大学フランス語圏文化学科入学・首席卒業。2011年東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻修士課程入学・修士課程修了(学術修士)、フランス思想を研究。その後、博士後期課程入学・中退。博士課程退学後は建長寺・妙心寺などの禅僧とともに「お寺での哲学教室」や「お寺での作文教室」を開いている。

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