確かに、世の中をまだ知らない子どもに、親が関与することはあります。しかしそれが「過干渉」なのか「干渉」なのか、その境目の判断は困難です。
一方で、「干渉はダメ」と言われると、「見守る」を通り越して、いきなり「放置」に移行してしまうこともあります。
そこで「干渉」を、次のように考えてみるのはどうでしょうか。
親が子に関与する場合、それが「一時的、断片的、継続したものでなければ問題にはなりにくい」。
このように考えれば、ご主人の言葉は、一時的、感情的にそのような言葉を発しているのであれば、問題ありませんが、それが継続的に行われると問題を引き起こす可能性があります。
違いは必要なサポートをするか、していないか
辞書では「成り行きを(気をつけながら)見る」という趣旨のことが書かれています。
つまり、眺めている状態であって、言葉や行動での介入、関与はありません。
では、見ているだけで子どもは育つのだろうかと思った方、もちろん、見るだけで何もしないのではほとんど意味がありません。
笠井さんは「見守っていれば子どもは勉強するようになるのでしょうか」という質問をされていますが、それは「ただ見ていれば、変わるのでしょうか?」と思われているのでないかと推察します。
もし、そうであれば、「ただ見ているだけでは、変わりません」が回答になります。
では、「見守る」とは何でしょうか。それは、あるべき状態になることを期待して、「適切な環境」を用意し、必要に応じて「子どもへの適切な言葉かけやサポート」をしていく、ということではないでしょうか。
そして、ここで重要なことは「無理矢理、親の意志に従わせようとしない」ということです。子どもに合わないのであれば、別の環境、別の方法を考えてみることも必要かもしれません。
辞書では「施すべき処置をしないでそのままにしておくこと」と書かれています。
本来、サポートしなくてはならない状況にもかかわらず、何もしない状態を指します。
すべきことをしないという点で、よい意味ではないということを多くの方が感じられると思います。
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